2017/08/04

FAKE

森達也監督のFAKE(ディレクターズカット版)を観た。自宅にはテレビがないので、HDに録画してもらったものを別宅で観ていたのだけど、カタルシスを迎えるエンドロールが流れたときに、窓辺に野良猫がスッと現れた。細くて綺麗で軽やかな野良猫だった。観た人にしか伝わらないと思うけど、絶妙なそのタイミングには驚いた。

ほぼ密室で時が流れているこの映画の地平を広げているのは、いっけん無関係な奥さんと猫だと思う。彼が自責の念に駆られて、奥さんに別れてほしいと切り出したことを、監督に聞かれて振り返るシーンがある。あの場面でフレームのなかに、動揺してまごまごした奥さんのリアリティが突然入ってきて、心を動かされた人は多いと思う。

心が動くのは、本質的なことを知覚したからで、本質的なことは、現象世界と同じ方法では知覚できない。だから突然、フレームの外から完璧なタイミングで庭に入ってきた野良猫は、映像を横切る猫と同一であり、時空を超えた本質的な世界を、いま知覚したのだと僕は理解ができた。

Nスぺで彼の特集をぼんやり観てたときは、全聾ではないけど、重度の難聴だろうなあと思ってた。テレビの言葉はもともと真に受けていないし、監督のいうように、聞こえる聞こえないは誰にもわからない。だからゴーストライターが出てきても、だまされたとは思わなかった。それより印象的だったのは、映像から伝わってくる、ひどく暗い闇のようなものだった(その闇に比べて、音楽はすっきりしているなあという違和感もあった)。その闇は原爆(被爆)からきているのかと当時は思っていたけど、騒動後に振り返ってみると、あの頃たぶん、彼は自分の影に押しつぶされていたんだと思う(その影は、偶然を装って本編に出てくる)。だから虚像が崩れてからの方が、人生はどん底だけど、健康的に見える。実際耳鳴りはおさまったのだし、奥さんとのきずなも深まって、嘘がバレてよかったなあと思う。発表する場がなくても、音楽は作れる。

ドキュメンタリーは嘘をつくという短編で、はじめて知った森達也という監督は、いつも出来事(物事)を内側から撮ろうとする。

『物にじかに触れる、そしてじかに触れることによって、一挙にその物の心を、外側からではなく内側から、つかむこと、それが「物のあはれ」を知ることであり、それこそが一切の事物の唯一の正しい認識方法である』井筒俊彦「意識と本質」より抜粋

監督こそがfakeであるという自覚を持つ監督は、ほんとうはたぶんとても素直に、俗世界から本質的なこと(もののあはれ)をすくいとろうとしているだけなのだろう。

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