2017/04/29

ヒノキオ

花粉の季節らしい。自分はほとんど気にならない程度だけど、本格的な花粉症の人の苦労を見たり聞いたりすると、たいへんだなあと気の毒に思う。

ようするにスギが多すぎるのだ。薪の手配をしていると、よくわかる。とにかくスギだらけ、ヒョロヒョロしていたり、自滅して倒れているのが多くて、痛々しい。

間伐してやらないと、陽がささずに、栄養も足りない。それでも生きようとしていて、健気に頑張っている。人間の都合で植えられたのに、文句も言わずに、伸びている。木は歩けない。何処か遠くに行きたいから、過剰に花粉を飛ばす。感受性の高い人が、その悲鳴を受けとめている。

人間の感覚器って、環境のバランスを反映するのだろうと思う。自然のバランスが偏ると、人間のバランスも偏る。

樹齢四十年くらいの杉を倒したときに、(ありがとう)という声が聞こえたことがある。ほとんど無意識に考えていたことが熟成して、神秘的な体験を通して、自己正当化による幻聴として聞こえただけと言われればそれまでだけど、本人にしかわからないような、揺るぎないリアリティはある。

豪快に倒れたそのときに、森に真空が現れた。森が割れて、その裂け目から、透明な強い風が吹いて、身体を突き抜けた。そのとき心を揺さぶったのは、宇宙の意思であり、無意識の声だろうと思う。その木は疲れていたんだと思う。それ一度きり。あとはなにを尋ねても、答えない。声というより響きだけど、今でもはっきり覚えている。

急な病気で入院してしまったり、心の病で引きこもったりすると、感覚が遮断されて、妄想と現実の境目がなくなることがあるらしい。たしかに山に一人で入ると、普段の情報からは遮断される。でも感覚は逆に広がる。澄み渡るというのか、自由な方へ伸びていって、悩みとかは吹き飛んでしまう。孤独の風は冷たいけれど、感受性は守ってくれる。

役小角が空を飛んで移動するという伝説は、よくわかる。役小角とは人の名前ではなく、透明な意識体であり、風の名称、昔の人はそのもどかしい気持ちを、なんとか形にしたかった。お不動さんや、弘法大師、山ノ神、海ノ神。それは私たちが実際に感じている、形のないものを、形なるものとして現している。

今日、数週間前に倒しておいたヒノキの木を取りに行って、輪切りにしていたら、丸太がピノッキオのように見えた。彼はもともと、意思を持って話をする、ただの丸太だった。おじいさんに人形にしてもらって、名前までもらったピノッキオは、最後に夢に現れた妖精によって、人間になった。

それは物語だけど、ほんとうの話なのだろう。

 

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