2017/08/04

蓮の花(3)

夕暮れ、蓮を見に行ったら、畑の前に、たまに見かけるおばあちゃんが座っていた。こんにちはと声をかけたら「何本でも持っていき」と言う。たぶんおばあちゃんは蓮畑の持ち主で、何度もこの蓮の花を見に通っていたことに、気づいていたのだと思う。欲しくてたまらなかったので、とても嬉しかった。

じゃあ一本だけ、と礼を言うと「何本でも持ってき」と言う。思いやりに甘えて、咲きかけの蓮の花を、二本いただいた。

花を選んでいるときに、大きな蛇(マムシ)がスッと足元を横切った。あれはきっと神(美)の化身だろうと思う。もしかしたら踏んでしまって、足を噛まれていたのかもしれない。それっきり、一度も見かけない。きっと二度と、姿を見せないだろう。なぜこのタイミングで、なぜ毒蛇だったのか。なんとなくだけど、僕にはわかる。

精霊は偶然を装って、この世に存在の影を落とす。その影を、絶対に踏んではいけない。

見つめることと待つこと、それが美しいものにふさわしい態度である。(ヴェイユ)
 


おばあちゃんの伝言

薪ストーブでトウモロコシを茹でていたら、屋根と煙突の隙間部分がパチパチと発火、すぐに消火して、充分に水をかけたつもりだったけど、種火が残っていたみたいで、寝ているあいだに、じわじわと燃え広がってしまった。

煙突周りに隙間は開けていて、いままでなんともなかったのに、なんで急にこんなことになったのかとか、あれだけ水をかけたのに、なんで種火が残っていたのかとか、ちょっと不思議に思っていたところに、昔この家に住んでいた、おばあちゃんの訃報が届いた。

すぐにああ、おばあちゃんが来たんだなと思った。大丈夫に見えても、この部分は危ないよと、火事が心配になって、向こうに行く前に、ここに立ち寄って、教えてくれたんだと思った。その日のうちに煙突周りの木を切って補強し、熱を持つ煙突周りは、耐火ボードを使うように段取りをした。

おばあちゃんとは、ここに住みはじめた当初は、ずいぶん仲良くさせてもらって、一緒に散歩したり、ほんとうのおばあちゃんのように思っていた。でも一年くらい前から僕の顔を見ても、誰かわからなくなって、それからほとんど外に出なくなって、会えなくなってしまった。

異なる事象を、根拠もなくこじつけていると、周りが見えなくなり、自分を見失う危険性があるのかもしれない。それでも僕は、焼け焦げて穴の開いたこの屋根裏を見ると、申し訳ない気持ちで、おばあちゃんを思い出す。あの細い腕や、苦労した若い頃の話、曲がった背中。そういう記憶が、宇宙の穴から溢れだす。

世界は不思議に満ちていて、偶然を利用して、本人にしかわからないように、語りかけてくる存在もある。タイミングや偶然を利用してしか、コンタクトすることができないような存在が、ほんとうはいまの暮らしや安全を、支えてくれているのかもしれない。人間はなにも知らない。生きていることそのものが奇跡で、世界が不思議に満ち溢れていることも、つい忘れてしまう。

心配かけてごめんな、寄ってくれてありがとう。火のもとにはじゅうぶんに注意するから、安心して成仏してください。

 

蓮の花(2)

不思議な夢を見た。感動して涙を流していた。とても大切なことを教えてもらった気がするのだけど、どうしても内容を思い出せない。三日前も同じ夢を見て泣いていた。

生命が何度も生まれ変わり、フラクタルに展開している、スパイラルで動的なイメージだけが、ぼんやり残っている。泣いてしまうってほとんどないから、夢でなにがあったんだろうと不思議に思ってた。

それから蓮の花を見に行った。陽射しの強い昼下がりだった。なんとなく蓮の下(地下世界)が気になって観察してたら、金色の鯉が出てきてびっくり。いままで数え切れないほど通ったけど、鯉がいたのには気づかなかった。花ばかりに気を取られて、本質的なことを見過ごしているような気がした。

人間は見たいものを見てしまう。つまり人間は人間というフレームからは逃れられない。でも本質的なものは、フレームの外からやってくる。今日はじめて姿を見せてくれた金色の鯉は、普段は制御されている知覚の門を、解放させた夢の化身に違いない。本質的なものは、本人にしかわからないようなタイミングを利用して、魂を揺さぶる。


 

蓮の花(1)

洗濯場に紋白蝶が、光を求めて羽ばたいていた。

外から入ってくるような隙間はないので、大根(精霊)の葉についていた青虫が、自然に羽化したのだろう。まるで生まれたばかりの妖精のような、小さくてもキラキラした風景がそこにあった。

それから用事を済ませて帰宅すると、また洗濯場に紋白蝶が。今朝は確かに一匹しかいなかったから、もう一匹青虫がいて留守中に羽化したか、成虫が隠れていたのだろう。どちらにしても不思議なタイミングで、なにか意味のあることのように思えてくる。

ここ最近は、憑かれたように蓮の花を見に行っている。雨が降るのでスケッチもできない。摘んで持って帰りたい衝動をグッとこらえて、落ちた花びらだけを拾って帰る。蝶は散る花に似ている。きっと花の精霊だろう。蓮の花の構造は、曼荼羅によく似ている。曼荼羅から飛び出して、蝶に生まれ変わった花びらは、きっとなにかを伝えようとしている、神の化身なのだろう。

FAKE

森達也監督のFAKE(ディレクターズカット版)を観た。自宅にはテレビがないので、HDに録画してもらったものを別宅で観ていたのだけど、カタルシスを迎えるエンドロールが流れたときに、窓辺に野良猫がスッと現れた。細くて綺麗で軽やかな野良猫だった。観た人にしか伝わらないと思うけど、絶妙なそのタイミングには驚いた。

ほぼ密室で時が流れているこの映画の地平を広げているのは、いっけん無関係な奥さんと猫だと思う。彼が自責の念に駆られて、奥さんに別れてほしいと切り出したことを、監督に聞かれて振り返るシーンがある。あの場面でフレームのなかに、動揺してまごまごした奥さんのリアリティが突然入ってきて、心を動かされた人は多いと思う。

心が動くのは、本質的なことを知覚したからで、本質的なことは、現象世界と同じ方法では知覚できない。だから突然、フレームの外から完璧なタイミングで庭に入ってきた野良猫は、映像を横切る猫と同一であり、時空を超えた本質的な世界を、いま知覚したのだと僕は理解ができた。

Nスぺで彼の特集をぼんやり観てたときは、全聾ではないけど、重度の難聴だろうなあと思ってた。テレビの言葉はもともと真に受けていないし、監督のいうように、聞こえる聞こえないは誰にもわからない。だからゴーストライターが出てきても、だまされたとは思わなかった。それより印象的だったのは、映像から伝わってくる、ひどく暗い闇のようなものだった(その闇に比べて、音楽はすっきりしているなあという違和感もあった)。その闇は原爆(被爆)からきているのかと当時は思っていたけど、騒動後に振り返ってみると、あの頃たぶん、彼は自分の影に押しつぶされていたんだと思う(その影は、偶然を装って本編に出てくる)。だから虚像が崩れてからの方が、人生はどん底だけど、健康的に見える。実際耳鳴りはおさまったのだし、奥さんとのきずなも深まって、嘘がバレてよかったなあと思う。発表する場がなくても、音楽は作れる。

ドキュメンタリーは嘘をつくという短編で、はじめて知った森達也という監督は、いつも出来事(物事)を内側から撮ろうとする。

『物にじかに触れる、そしてじかに触れることによって、一挙にその物の心を、外側からではなく内側から、つかむこと、それが「物のあはれ」を知ることであり、それこそが一切の事物の唯一の正しい認識方法である』井筒俊彦「意識と本質」より抜粋

監督こそがfakeであるという自覚を持つ監督は、ほんとうはたぶんとても素直に、俗世界から本質的なこと(もののあはれ)をすくいとろうとしているだけなのだろう。

宇宙からの帰還

立花隆の「宇宙からの帰還」という本を読んだ。

宇宙飛行士たちのそれぞれの体験談が、とても興味深かった。月の上に下りた飛行士の一人は、直接的な実感として、すぐそばに神の存在を感じていたらしい。自分と神との距離がまったくない、即ち啓示としての神の導きを受けていたという。

地球にいても、すぐそばに神を感じることはある。森の中を歩いたり、大樹に近づくと、なにかに触れる。もしそのなにかを神と言うなら、自分と神の間には、距離がない。森の中や大樹に神が宿っているとも言えるけど、実感としては内的な経験なので、それは出会いであり、距離というのはほとんど感じない。

夜のジョギングコースで、月の灯りさえ届かない暗闇がある。自分の身体さえ見えない暗闇にいて、襲ってくる不安を越えると、自分も暗闇の一部になったような気持ちになって、意識が超越する。宇宙空間のように無音ではないけれど、残された心は、空間や距離を越えた永遠の広がりを実感している。

「宇宙空間に出れば、虚無は真の暗闇として、存在は光として即物的に認識できる。存在と無、生命と死、無限と有限、宇宙の秩序と調和といった抽象観念が抽象的にではなくて、即物的に感覚的に理解できる」エド・ミッチェル(宇宙飛行士)

宇宙飛行士のインタビューを読んでいて、空(くう)のことを話しているなあと思っていた。この人たちは宇宙船や宇宙服ごしに、空(くう)を実感したんだなあと思った。

僕は月に行きたいと思ったことはないし、人間が住めるのは地球だけだと思ってる。野原を歩いているだけでも、宇宙を理解することはできると思う。

数日前、人目を避けた早朝に、イチョウの大樹をスケッチに行った。大樹の根は禍々しくて、ここには鬼がいるなあと思った。スケッチした後、その場所を離れて大樹の全景を見たら、その鬼を可愛らしい形をした無数の葉が、皮膚のように包んでいて、大きなモノノケのように見えた。

ふと思った。なぜあんなに鬼を見つめていたのに、自分には鬼(魔)が入らなかったのだろうかと。禍々しくて不気味なモノを見つめていても、逆にこちらはスッキリしている。たぶん大樹は、この世界に満ちている鬼(魔)を、吸い取ってくれているんだなと思った。それが実感としての、畏怖だろうと直感した。

それから宇宙飛行士の本を読んで、ああそうかと納得した。地球は意識の国で、ひとつの生命体としての神々を、森羅万象に秘めている。言い換えると、宇宙飛行士が即物的に感じた神は、具体的にそばにいる。色即是空、だから大樹は、疑問を与えて、沈黙で答える。

最近は、ある町に定期的に通っている。はじめて訪れる土地にも、神がかった場所がある。創造的孤独を抱えていると、距離は関係なく、そういう場所に繋がる。その繋がりは内的なものだけど、無限な広がりがある。暗黒に耳をすませば、宇宙飛行士と同じような経験をすることができる。

精霊のクライアント

帰宅途中、軽トラに乗った黒い犬とすれ違った。しばらくして、白い犬が全速力で走ってきた。また捨て犬かなあと思っていた。主人を探して疾走しているような、全身全霊の熱い気持ちがこちらに伝わってきて、急に目頭が熱くなった。

その日の午後、犬の散歩していたら、前から来た軽トラが、プップッとクラクションを鳴らしてきた。
‪振り向いた軽トラの荷台には、白と黒の犬が乗っていた。さきほどの白い犬だった。ああ、さっきは軽トラを追いかけていたんだなあとわかって、心底ホッとした。白い犬は疲れているけど、どこか穏やかな顔で、こちらを見ていた。それだけの話だけど、なぜ目頭が熱くなったのか、とか、なぜ知り合いでもない軽トラの人が、クラクションを鳴らして知らせてくれたのかとか、いろいろ考えていると、不思議な気持ちになった。‬

言葉を使えない動物は、テレパシーと呼ぶしかないような方法で、世界と交流している。植物もそうだろうと思う。もちろん人間も、同じだろうと思う。

よくわからないけど、すごく気になることがある。それはとても個人的なことだけど、意味のある偶然に満たされている。言い換えると、シンクロニシティが起きていて、時間や空間が消えている状態。ただの偶然ではなくて、そこに意味がある。

まだ制作中の絵がたくさんあるのに、竜王と呼ばれている大樹を描いてしまう。たぶん竜王が、テレパシーを使って、シンクロニシティの海から、発注しているのだと思う。精霊がクライアントの場合、断わることができないし、報酬は描く喜びのみ、でもその報酬は、100%純粋に、自分に返ってくる。



 

生命の糸

ブリリアントブルーの油絵具を買いに、街の画材屋へ。いつも親切にしてくれる店のお父さんが、まさにその色のTシャツを着ていた。クラクラする太陽に誘われて、中央公園に足を伸ばした。連休明けの公園は、夢の跡のような静けさで、授業をサボって抜け出したあの頃と、たしかに構図は同じなのだけど、ありふれた自由が、なにも起こらない風景に滲んでいく色調を、あの頃よりは印象的に描いていた。

平日の昼過ぎにふらふらしていると、まるで自分が糸の切れた凧のように思えて、自由と引き換えに不安を抱えてたものだけど、あの頃となにも変わらない、木々や木漏れ日や太陽を浴びていると、その光が魂の陰影を映すので、社会からは切り離されたように感じていても、生命の糸は繋がっていることがよくわかる。

驚くほど人のいない、なにも起こらない風景なのに、目が離せなくなるのは、けして立ち入ることのできない、巨大な秘密が、そこに隠れているからだと思う。私たちはぼんやり、その秘密を見ている。

2017/04/29

不思議に満ちあふれているこの世界

神光寺にて。まるで演奏会に来たような、甘い香りと熊蜂のワルツ。ここののぼり藤はほんとうに綺麗なんだけど、霊性が高いモノノケのようにも思えてしまう。
 
自分の意志ではなくて、急に誘われてここに来たんだけど、たまたま青と赤の絵を描いていて、藤の色はちょうどその間にあるから、ふたつの色が重なったような気持ちになった。
 
ふと思い出したことがある。数年前、ある不思議な体験をした。撮った覚えのない写真が、カメラに映っていた。そのことは、すっかり更新するのを忘れていたブログに書いてあった。

「気になる出来事」http://kazuyasakaki.blogspot.jp/2012/09/blog-post_19.html

実際この体験をした現場は、神光寺の近くだった。たぶん藤の花が教えてくれたんだろう。時間や空間を超える存在があることを、この世が不思議に満ちあふれていることを。

 

花と鴬

ずいぶん前に、東京でお世話になっていた人に、自宅のパーティーに誘っていただいた。そのころは気の利いたプレゼントを買うお金もなくて、空き瓶に入れた花の絵を描いて、持っていった。名の知れた人がたくさんいて、緊張してしまい、絵を渡すタイミングを失って、こっそり部屋の隅に置いた。

パーティーが終わりかけたころ、その人は花の絵に気がついた。固まってじっと見ていたので、声をかけるのを躊躇していたけど、思いきって「僕が持ってきました」と背中に声をかけると、ちょっと吃驚したような顔をして、振り向くと「この絵、ちょっとヤバイよね」と言って、逃げるように離れてしまった。なにがヤバイのかは、そのときはよくわからなかったけど、いまはわかる。なにかいけないことをしてしまったような気がして、すごく恥ずかしくなって、誰にも見つからないように、その絵を鞄にしまった。

本人しか覚えていないような話だし、そのことが原因ではないけれど、東京にいるのがつらくなってきたのは、たぶんそのころからだったように思う。

それから何年たっただろうか。

また同じような花の絵を描いている。誰にも送ることのできない、ヤバイ絵を。気の利いた花瓶にも入れてもらえない、気の毒な花は、描いている間に、しおれて落ちてしまう。なにか自分のせいのようにも、思えてくる。でもそれで描けなくなるほどの繊細さは、自分にはない。

目には見えないけど、花は動いている。でも動くなとは、言えるはずがない。本体から切り離されて、エネルギーの流れが変わってしまった花は、しおれるのも早い。花から奪った時間は、自分の中に流れてくる。その時間が、魂のなかに微睡んでいて、自分を生かしてくれている。

綺麗な花の絵は、うまく描けない。花を汚しているような、気持ちにさえなることがある。自虐ではなくて、たぶん自分のなかに、花のようなタンベラマン(気質)が、欠けているからだと思う。後ろめたいからこそ、見えてくるのは、そこにある花ではなくて、そこにあった時間(思い出)だろうか。

鳥が歌うように絵を描きたいと言ってたのは、モネだったろうか。ちょっとかっこよすぎる台詞だけど、本心だと思う。もしも小鳥が、自分が歌っている理由を、正確に言うことができるとしたら、彼は歌わないはずだと、ヴァレリーは言った。本人も気づいていないような巣箱に、大切ななにかが隠れている。

うちのまわりに来る小鳥のなかに、鳴くのが下手なウグイスがいた。ケッチョ、ケッチョと、ぎこちないけど、なんだか可愛いくて、心に残ってる。小鳥はみんなに喜んでほしくて、歌っているわけではないだろうと思う。歌うことそのものが、小鳥にとって生きることだった。

あのウグイスは、何処にいったのだろうか。もし歌がうまくなって、ほんとうはすぐそばにいるのに、他のウグイスと区別がつかなくて、わからなくなってしまったとしたら、それはそれでよかったなあとは思うけど、すこしだけ寂しい。


 

日本の春

雨が続いているせいか、不思議な夢を見る。昨夜は夢で結縁勘定を受けた。お坊さんに案内された、地下の暗いお堂で、目隠しをして、後ろに花を投げると、空中で花が散った。曼荼羅の上には、昨日の桜のように、白い花弁が散らばっていた。

この時期に山を越えると、道中で桜が降ってくる。初雪のときめきが、溢れるように蘇る。記憶と現実に、切り離されていたはずの風景が、もののあはれを知って、ひとつになる。雲のうえに隠れていた冬の花、日本の春には雪が降る。



メビウスの帯

樹齢千年の大楠へ。場所は頭に入っていたけど、ずいぶん迷ってしまった。

想像以上の霊性だった。誰もいない孤高の風景を、脳裏に描いていたけど、子どもたちが遊んでいた。老女が根を周りながら、なにやら念仏を唱えていた。こんにちはと声をかけてから、すこし離れてスケッチをしていたら、足音もなく、老女が近づいてきた。

すれ違っただけなのに、白蛇のような、絡みつく視線を感じた。この大樹の、守人だろうと思う。老女が去ると、変身したように、赤子を抱いた女性が現れた。生と死を抱いたような、安らかで不思議な時間だった。

羅針盤が惑うのか、大切な場所に辿り着くときは、いつも迷っているような気がする。わかりにくくて、簡単には辿りつけないように、結界がかかっている。でもその結界をくぐると、一気に世界が変わる。

テオドール・ルソーや、クールベのフラジェの樫の木の絵を、思い出していた。広い野原に、ポツンと突き出した千年樹は、絵でしか伝えられないような、独特の質感を持っている。

向こうからやってきた、風景と呼ばれているものと、こちらに微睡んでいる、魂と呼ばれているものは、メビウスの帯のように、ひとひねりに繋がって、完結している。

 

ヒノキオ

花粉の季節らしい。自分はほとんど気にならない程度だけど、本格的な花粉症の人の苦労を見たり聞いたりすると、たいへんだなあと気の毒に思う。

ようするにスギが多すぎるのだ。薪の手配をしていると、よくわかる。とにかくスギだらけ、ヒョロヒョロしていたり、自滅して倒れているのが多くて、痛々しい。

間伐してやらないと、陽がささずに、栄養も足りない。それでも生きようとしていて、健気に頑張っている。人間の都合で植えられたのに、文句も言わずに、伸びている。木は歩けない。何処か遠くに行きたいから、過剰に花粉を飛ばす。感受性の高い人が、その悲鳴を受けとめている。

人間の感覚器って、環境のバランスを反映するのだろうと思う。自然のバランスが偏ると、人間のバランスも偏る。

樹齢四十年くらいの杉を倒したときに、(ありがとう)という声が聞こえたことがある。ほとんど無意識に考えていたことが熟成して、神秘的な体験を通して、自己正当化による幻聴として聞こえただけと言われればそれまでだけど、本人にしかわからないような、揺るぎないリアリティはある。

豪快に倒れたそのときに、森に真空が現れた。森が割れて、その裂け目から、透明な強い風が吹いて、身体を突き抜けた。そのとき心を揺さぶったのは、宇宙の意思であり、無意識の声だろうと思う。その木は疲れていたんだと思う。それ一度きり。あとはなにを尋ねても、答えない。声というより響きだけど、今でもはっきり覚えている。

急な病気で入院してしまったり、心の病で引きこもったりすると、感覚が遮断されて、妄想と現実の境目がなくなることがあるらしい。たしかに山に一人で入ると、普段の情報からは遮断される。でも感覚は逆に広がる。澄み渡るというのか、自由な方へ伸びていって、悩みとかは吹き飛んでしまう。孤独の風は冷たいけれど、感受性は守ってくれる。

役小角が空を飛んで移動するという伝説は、よくわかる。役小角とは人の名前ではなく、透明な意識体であり、風の名称、昔の人はそのもどかしい気持ちを、なんとか形にしたかった。お不動さんや、弘法大師、山ノ神、海ノ神。それは私たちが実際に感じている、形のないものを、形なるものとして現している。

今日、数週間前に倒しておいたヒノキの木を取りに行って、輪切りにしていたら、丸太がピノッキオのように見えた。彼はもともと、意思を持って話をする、ただの丸太だった。おじいさんに人形にしてもらって、名前までもらったピノッキオは、最後に夢に現れた妖精によって、人間になった。

それは物語だけど、ほんとうの話なのだろう。

 

なにかがあるから表現が始まる

峯長瀬の大ケヤキに。廃屋の掃除をしているらしく、大ケヤキのそばに女の人がいた。何度も通ったけど、この場所で人間に会ったのははじめて(ほんとうに人間だったのだろうか?)。ちょっと集中できなかったのと、空が曇ってきたので、素描を中断してカメラを向けたら、まるでカーテンのように、雲がぱあっと散って、太陽の光が射しこんできた。

それからはずっと曇り空で、帰宅してすぐに雨が降り始めた。天気の機微になにげない行動がシンクロ(同調)すると、なにかに導かれているような、不思議な気持ちになる。実際出かける予定はなかったし、朝から路面が濡れていて、雨のリスクが高かった。それでも呼ばれたら出かける。意識はいつも無意識を追いかけている。たまたまと言われればそれまでの話に、自分では気づけない存在の影がある。

なにもないところから表現が始まるのではなくて、なにかがあるから表現が始まるのだろうと思う。違う言語で精霊に語りかけられているような、手が届かないもどかしい気持ち、わかってもらえないだろうなと、諦めてしまいそうな、他の人からは見えない暗い場所に、神々は宿る。

数日前、メダカの水槽の水を入れ換えていたとき、小さな一匹を、誤って外に流してしまった。探したけど、見つけることができなかった。悲しくて泣いてしまうような純粋さはもうないけど、気づかなかったことにするような鈍感さもないので、しばらくは棘が刺さったような気持ちになった。

こういう場所に、性霊(霊性)が宿る。その棘も、時間が経てば、自然に抜けてしまう。生きているから。他の人には見えない、でも大きな意味で繋がっている。そういう大宇宙のような構造を、小さな心が持っている。

 

宇宙の書

「すべての見えるものは見えないものに、聴こえるものは聴こえないものに、感じられるものは感じられないものに付着している。おそらく考えられるものは考えられないものに付着していよう」ノヴァーリス

薪割りをしていると、ツルっと表皮がむけることがある。その皮に虫食いの模様があると、手紙を受けとったような嬉しい気持ちになる。その模様に、意味なんてないのかもしれない。でもなにか本質が隠れているような、宇宙の暗号を見つけたようなときめきがある。

なんの意味もないような自然の模様に、隠された深淵がある。芸術にコミットした人なら、わかると思う。突き詰めると芸術家は、ここを目指していて、自然と人間の間で、揺らめいている。草木が見ていた夢の欠けらを、ほんとうはひとつなのに、離れてしまったものを、拾い集めるように。


粉雪の森

樹々や草花には申し訳ないけど、年に数日しかないので、雪が積もると嬉しくてしかたない。雪は景色を劇的に変えてしまう。凍りつく樹々に絡みつく雪の純白が、内側に宿る霊性を引き立てている。自然は厳しいほど美しい。

家の前は谷になっているので、吹雪いてくると、一度は落ちた雪が、ふたたび風に乗って舞い上がる。ふわふわと落ちる雪と、重力に逆らう雪を同時に見ていると、見ているこちらが無重力になって、宇宙空間に微睡んでいるような夢心地になる。

雪の森を歩いていると、ときどきゴソッと砕けた粉雪が落ちてくる。淡い光に照らされて舞う粉雪は、ダイアモンドのように煌めいていて、それはただの自然現象なのだけど、全てが計算された、天上の悪戯のような、精霊の存在をすぐそばに感じて、ときめいてしまう。

なにげないことに美を感じたり、自然現象にしみじみとするのは、たぶん地球で、人間だけだと思う。なんでそういう機能が、人間に与えられたかを、自分の頭で、深く深く考えていると、やがて雪が溶けるように、自然と道が開けてくる。

 
 
 

魂の影

ひどく体調を崩していたカムイが、やっと回復してくれて、ホッとした。空とカムイは元気があり過ぎて、手に負えないところがあるのだけど、元気がないよりはずっといい。

特にカムイは自分にべったりなので、身代わりに近づいてきた病(邪気)を、引き受けてくれた自分の影のように思えてしかたない。彼らはたまたま犬と呼ばれているだけの、なにかだと思ってる。宮沢賢治のガドルフの百合や、タルコフスキーの映画に出てくるような、物語を横切る、安らかな黒い影。ペットの話ならしたくないけれど、魂のことなら話したい。

実感として、動物に人間の言葉は通じない。でも想いは伝わっている。人間よりも感度が高いので、どれだけ激しく暴れても、無造作に置いてる絵を傷つけたことは、いままで一度もない。草や木や花も同じだろうと思う。人間の言葉は持っていない。でもそれぞれの言葉を持っている。

ある夜、赤い橋の手前で、車にひかれた子犬を見つけた。藍染めの着物で包んで、弔った。それから突然迷いこんできた、二匹の捨て犬。きっとそのへんに咲いている小さな花にも、理由があるのだろうと思う。人間の都合で物事を見ていると、違う回路の言葉は汲み取れない。

いつだったか、長くゆるいカーブで、ニコニコと手を振ってくれる、お婆さんがいた。森のなかで、風もないのに、揺れている草を見ていると、名前も知らないその人のことを、思い出すことがある。風の音が聞こえる、吹きさらしの、あのゆるいカーブには、いまもなお、汲み取れないままの言葉が、流れている。

生命の轍

薪を割っていたら、ナスカの地上絵のような模様が出現した。太陽のような、クモのような。珍しくはないけれど、直前まで剣山の聖なる岩を素描していたこともあって、古代の地層に触れたような不思議な気がした。

ナスカの地上絵って、鳥の目で描かれたものだと思う。人間って、ふたつの目がある。外側の目と、内側の目。内なる目は、鳥のように全体を見通したり、夢のように心を泳ぐことができる。木の中にいた虫は、その暗闇を内なる目で照らし、古代の夢を泳いでいたのだろう。だから地上絵とリンクした。

こんぴらさんで見た、若冲の花丸図には、個々の花や葉に、虫食いの穴やシミが描かれていた。内なる目で美を追及した若冲にとっては、夢を通すその穴が不可欠だった。画家が通したその細い糸は、太古の時間と今ここにある未来を織りなして、ただ綺麗なだけの花に、ありのままの生命を宿した。

虫に感情や意思はないのかもしれないけど、生命がある。シンプルに生きている虫の轍や、自然の織りなす芸術は、ときに人間の眠っていた感情を呼び起こす。内なる目は時間の宇宙を泳ぎ、生命の輝きに呼応している。外側の目と内側の目が重なる場所に、理由のない美しさや驚きがある。

 

太古の記憶

ずいぶん前に自分で作った家具を、薪にしようと庭で輪切りに切っていたら、強烈な香りが漂って、驚いた。しばらくして、それがクスノキだとわかったのは、たまたま描いていた、大楠の木炭画の前に置いたときだった。よく似ているなあと思って、模様を調べたら、やっぱりクスノキだった。

楠のこの独特の香りは、古くから天然の 防腐剤として利用されたり、強心剤としても使用されていたため、それらの用途としてはほとんど用いられなくなった現在でも、「駄目になりかけた物事を復活させるために使用される手段」を比喩的にカンフル剤と例えて呼ぶことがあるらしい。「臭し(くすし)」、「薬(樟脳)の木」が、「クス」の語源だと言われている。

「駄目になりかけた物事を復活させるために使用される手段」

たしかになにかが、復活するような香りだ。眠っていたなにかが、むくっと立ち上がる

切った覚えはないので、たぶん拾ったか、もらった木だと思う。この小さなクスノキと大きなクスノキの出会いは、本人も気づいていないような、無意識の世界で進行した。もう香りはほとんどしなくなってしまったけど、木のなかには記憶が眠っている。

木や石は、深く眠っている。瞑想をしていて、なにかを考えている。そのなにかが、無意識に働きかけている。

嗅覚は五感のなかで、唯一大脳新皮質を経由せずに、記憶や感情を処理する部位にダイレクトに接続しているらしい。たしかに匂いを感じるときと、なにかをフワっと思い出すときの感じは、よく似ている。

でも嗅覚が思い出す記憶は、限定された自伝的要素だけだろうか。個人的な時間を超えて、終わりのない旅を、逆走しているような気持ちになることがある。

人間は見たいように物事を見る。そんな不自由な人間に対して、ただ其処に在るはずの自然が、手を使わずに自分を動かしているような気がする。覚えていない思い出が眠っている、無意識の海へ。

楠の香りは夢のように、太古の記憶を呼び起こす。

 

木を植えた人

2016年最後の夜、ジャン・ジオノの木を植えた人を読んだ。
 
「この人と一緒にいると、心が落ちつく」
 
呼吸をするように燃える薪の炎が、木を植えた男のイメージと重なった。
 
「人間は破壊するばかりの存在というわけでもなく、神に似た働きもできるのだ」
 
ジャン・ジオノの木を植えた人は、戦争の影響をまったく受けなかった。彼が実在するかしないかは、問題ではないだろう。ジャン・ジオノの木を植えた人は、自分の心の中にいる。
 
明けて2017年、初詣は宇佐八幡神社に、そのまま明王寺に行って、大楠と桜の縁を結んだ。まるで花道のように、道中でいくつものケセランパサランを拾った。明王寺で引いたおみくじには
 
「わがおもう 港も近く なりにけり ふくや追手の かぜのまにまに」
 
とある。風に守られているようで、ホッとする。

神社の鳥居の下に落ちていた、白く輝く小さな綿毛。季節が変わる頃に、この美しい羽根は、桜の花に生まれ変わるだろう。

世間の流れとは別に、自分の中に流れがある。その風に乗れば、何処までも飛んでいける。その風は何処から吹いているのだろうか。

世間の流れに合わせなくても、内なる大海に帆を立てれば、ワグナーのように舟は進む。

 
 

前世の夢

夢を見た。どこか遠い異国の密林、大きな虎が上にいて、動けない。虎の顔が近づいてきて、ああ、食べられるのだなあとすっかり諦めて、抵抗せずに、静かに目を閉じたら、夢から覚めた。雨雲が朝の光を隠していた。

台風が近づくと空が赤く染まるように、低気圧が近づくと不思議な夢を見る。どこかで見たことがあるイメージだった。法隆寺で見た、玉虫厨子の捨身飼虎図を思い出した。

寝る前にブッダの本を読んでいたから、間接的に記憶が呼ばれたのだと思う。夢であれ、ジャータカ(釈迦の前世)の物語に触れたのは、光栄だと思う。ああ、ここで人生が終わるのだなあと、後悔も未練もなく諦めて、目を閉じた瞬間、意識がスッと背中から首すじの辺りにかけて、上に抜けたときの、あの人生をリセットしたような不思議な感じが、いつまでも残っていた。

夢は目を閉じてから見るのだから、目を閉じて夢から覚めるという経験は、いかにも奇妙だ。目を開けていても、ほんとうはなにも見ていないことがある。網にとらえられない風のように、風景は流れて、水に汚されない蓮のように、永遠に咲く花がある。犀の角のように、ただ独り歩め。