2016/04/17

緑の季節

春の嵐が過ぎ去って、夏のような強烈な陽射しが、風景を白色矮星のように発光させている。メダカの水面から反射した光が、磨りガラスに炎のような渦を描いている。昨日(2016.4.16)は海にいた。あの日(2011.3.11)もそうだった。海は呼吸している。自分も呼吸している。海と自分の呼吸が重なると、世界との境界が消える。

アボリジニの画家、エミリー・カーメ・ウングワレーの図録を眺める。

2008年に国立新美術館で、ウングワレーの展覧会が開催された。はっきり覚えていないのだけど、誰かにチケットをもらったか、誘われたかで、彼女の絵を見た。めったに展覧会には行かないし、積極的に自分から見たかったわけではないのに、とても記憶に残っている。なぜだか強烈な違和感があって「この絵はこのような近代的な空間にふさわしくない」と思った。「こんなところに置いてはいけない」と思ったのは、仏像以外でははじめてだった。

作品はプリミティブ過ぎて、正直言うと、なんだかよくわからなかった(準備ができていなかった)。でもなぜだか事件のように、行ったことだけはよく覚えている。彼女の魂が、アボリジニの文化もよく知らなかった自分に届くのには、2008年から2016年という8年間の時間が必要だった。78歳から描きはじめた、彼女の三千点以上の作品を残したその時間も、およそ8年間だった。

そういうことはよくある。そのときはわからなくても、記憶は待っていてくれる。もしかしたら未来の自分(現在)が、そのときの自分に、興味がなくても見に行くように、手配したのかもしれない。

彼女の絵は外に向いていない。内側を歩いている。その内側は外よりも広い。一見大胆だけど、静かに慎重に歩いている。けして物語を離さないように、注意して綱渡りをしている。彼女はモネもポロックもロスコも知らない。美術史の外からやってきた。アボリジニの大地からやってきた。

彼女は自ら望んで画家になったわけではなく、偶然に与えられた機会が、彼女に絵を描かせた。画布も絵の具も絵筆も、すべて与えられたものだった。パレットはなく缶のまま、絵筆のかわりにゴムサンダルを使うことさえあった。しかし彼女は与えられたものに満足し、それを自在に操って作品を描き続けた。描くことは楽しみでもあると同時に、生きることそのものだった。作品を売って得た現金は、そのままアボリジニのコミュニティの生活を支えた。

最晩年のモネのような「大地の創造」は、雨季の後に訪れる、彼女が"緑の季節"と呼んだ時期に描かれた。美術館で見たはずのこの絵のことを、僕は覚えていない。ただ見ただけで、出会っていなかったからだろう。でも慎重に物語を歩いて(ドリーミング)いけば、いつか思い出せるような気がする。嵐が過ぎた雨上がりの、キラキラ光る緑の季節に。

写真 Emily Kame Kngwarreye「大地の創造」1994/キャンバスにアクリル/275×160cm×4
参考 エミリー・ウングワレー展図録


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