2016/02/26

シンビジウム


シンビジウムという花をいただいた。東南アジア原産の蘭で、花言葉は「素朴」「飾らない心」とのこと。自分で花を買って飾ることはないので、もらうと気になってしまう。


野生の花や蕾は描けるんだけど、飾っている花は、まだうまく描けない。シンビジウムは長持ちするらしく、まだ綺麗に美しく咲いてる。一輪を残して、目に届かない場所に移した。花は霊性が強いので、長く見てると、落ち着かなくなってしまう。花に飲まれて、ありのままに見ることが、できなくなってるのだと思う。

目の届く場所に、お気に入りの骨とか石があると、気持ちが落ち着くのだけど、花はちょっとソワソワする。たぶん自分のなかに、花がないからだと思う。花が持っている霊性を、自分は持っていないから、すこし緊張してしまう。恋をしている状態によく似ている。

呼吸のように、していることを忘れてしまうような、でもしていないと、生きてはいられないような関係でなければ、モチーフは呼応してくれないような気がする。綺麗なだけではなくて、ほんとうに美しい花を描いている人は、そういう関係を築いているのだと思う

精霊の森は、たしかに自分の中にある。あの森は、五年前くらいに見つけて、二年前くらいから描きはじめた。誰も知らない秘密の森に、何度も通った。だから描くことができる。下手でもあまり気にならないし、どこか心の底で納得ができるのは、身体を通して、世界と関係(約束)ができているからだと思う。

あの森は、心のなかにある。そういう場所を、いつも探しているような気がする。都会にも、雑踏のなかにも、誰からも見過ごされて、忘れさられたような真空に、その人だけに開示される、やさしい秘密がある。精霊は、そういう場所に宿る。いつかその森に、花が咲くだろうと思う。
束の花は、いかにも豪華だけど、一輪の花の方が、ずっと気が安らぐ。気が安らぐと、話ができる。話ができると、絵は描ける。


一輪を、朝の光の窓辺に、もう一輪を、夕の光の窓辺に置いた。

花も人間も、集団より個の方が、信用できる。一輪から放たれる霊性は、不安を打ち消してくれる。一対一になれると、一体になれる。飾らない心に、花が咲く。

花(自然)が表現していることに、耳をすませていると、知覚できない存在から、なにか語りかけられているような気がする。見るものと見られるものの間に、距離や空間はなく、ただ静かで広大な時間が、そこにある。霊的な形や色を通して、その時間を埋めるようにと、なにかが心に、働きかけている。

なぜこんな形をしているのだろうか。なぜこんな色をしているのだろうか。誰にも答えられない。

2016/02/06

辻風


散歩はたくさん続けてやるように、また大いに自然を愛するようにしたまえ、というのもそれが芸術をもっともっとよく理解するための真の道だからだ。画家たちは自然を理解し、自然を愛し、その見方をわれわれに教えてくれる。(ゴッホの手紙より、ロンドン1874年1月、テオ宛て)


呼ばれたような気がして、近所の宇佐八幡神社に。いつもするように、樹齢八百年の大楠に手を触れた瞬間、ひゅるるるんと、耳を撫でるように、後ろから風が吹いた。気持ちよくて、何度か試したけど、一度きりだった。風はないけど、足下にはうつほがある。ああ、この穴から吹き上がったのだなと、直感した。それから耳の後ろに、小さな辻風(つむじ風)が、いつまでも残っているような感じがした。この鎮守の森は、本人にしかわからないような霊験を通して、なにか大切なことを伝えようとする。

今朝、森のなかで、ふとゴッホを想った。あの小さな辻風が、ひゅるるるんと螺旋を描いて、星月夜のように、耳の後ろで回転していた。渦に巻きこまれてはいけないけれど、そばにいるなら心強い。いつか自然に帰るその日まで、いろんな風に吹かれながら、自分の歩幅で歩けばいいのだと思う