2015/03/29

色彩論②


夜の散歩。まだ咲ききらない夜桜が、月の視線を受けて桃色めいていた。

夜が暗く、昼が明るく。空が青く見える理由や、夕暮れがなぜ赤いのかは、調べればわかる。でも光の波長という知識だけで、空の青さや、夕焼けの赤みや、藍色の闇の奥深さや、花の紅に感じいる心の機微を、説明することはできない。色は感情を持っている。感覚として捕らえている色については、自分で自分を照らしてみないと、ほんとうのところはよくわからない。

ニュートン光学に反証する形で、ゲーテは約二十年の歳月をかけて色彩論という大著を書き、その意志を継いだシュタイナーがさらに詳しく色彩の本質を書き残した。実験によって数値に置き換えられた自然は、もはや本当の姿を失っていると、警鐘を鳴らした。色彩論では、色彩とは光と光ならざるもの対立(結婚)、光と闇の境界線にこそ存在すると説き、闇そのものの存在を重視し、色彩現象の両極を紡ぐ重要な要素として考えていた。もし世界に色がなければ、どれほど寂しかろうと思う。人が感情を持ったそのときに、世界に色が広がったとも言えるだろうか。


色とは、今まさにこの瞬間の生命の証(照)明という気がする。作品を色のない形で残そうとする表現者の想いも、そこにあるのではないだろうか。過去や未来には色がない。でも永遠の相がある。過去にも未来にも属することができないこの消失点、vanishing pointにだけは、光があたる。宇宙からの恵み、慈しみだと思う。

東洋的には色はしき。物体であり、物質のこと。表面に見える色だけではなくて、物体の内から輝く色(光)のことも含まれている。見えているものだけが色ではなくて、内面から引き出されるような見えない色もある。色即是空 空即是色。色のない世界とは、空(くう)のことだろう。


2015/03/08

沈黙の声


呼ばれたような気がして猩々の森に。

森の前の河原に、元禄時代の古い墓碑が転がって倒れていた。捨てられたのか、濁流に運ばれたのか。可哀相になって、砂場の脇に運んで、立てて、手を合わせた。それから森でスケッチして、帰ってから家の前の河原で犬と遊んでいたら、川べに白い球体が。卵かなと思ったら、石のように固い。でも石でもない。なんだかわからないけど、霊(たま)なんだろうなと思った。

猩々の森はこの山里の死角にある。道路からは見えないし、ちょっと遊びに来た人が見つけられる場所ではなくて、地元の人も知らないと思う。わかりにくい獣道なのに、トンネル工事が始まって、道が完全に閉ざされて結界がかかっていた。迂回してここに行くには川を渡る必要があるが、雨が降ると渡ることはできない。

森に入ってすぐに、頭上で大きく鳥が鳴いた。

聞いたことのない鳴き声だった。しばらくして以前から感じていた視線が、ヒノキの枝痕だったことに気づいた。樹には目がある。それに気づいてから、驚いた。ここはヒノキの植林の森なのだけど、枝痕は恐るべき数だった。無意識はそのことを知っていたのに、気がつくのに今日までの時間が必要だった。枝痕は無意識と見つめ合っていた。

何枚か写真を撮るのだけど、広い場所なのに、いつも必ず同じ立ち位置で撮ってしまう。すこし角度を変えているだけで、ほとんど同じ場所を撮っている。このことは自分でもうまく理解できない。その視線の先には時空が裂けたような真空があって、超自然的ななにかが関与して、此方と彼方の通路を開いているような。そこでなにかと繋がる。根拠はないけど、精霊だと思う。そのときはよくわからないんだけど(いつもそうだ)、しばらくしてその体験が、沈黙の声として、ゆっくりと言語化して意識に浮かんでくる。

memento mori

こういう体験をすると、頭では理解できない宇宙のはたらきが、自分を生かしていることがよくわかる。