2014/10/08

紀伊国

熊野から高野山に。

紀伊続風土記では「熊は隈であり、籠もるという意味。この地は山川幽谷、樹木鬱蒼だから熊野と名付けた」とある。たしかに紀伊国には、隠れ、籠もるイマージュがある。台風が近づいていて、天気が崩れかけていたのは幸いだったのかもしれない。日本の森はカラっと晴れているよりも、湿っている方が本質的に思える。

熊野に惹かれているのは、異界を感じているからだと思う。深い眠りを導いてくれる、死と緑の世界。一時的に死(仮死)を受け入れ、霊界に籠もり、そこで新しく再生して、目覚める。


紀伊国はパラレルリアリティを感じさせてくれる。宇宙が多次元構造であったなら、もうひとりの自分の影に、もしかしたら出会っていたのかもしれない。時空の違う自分から、影響を受けているのかもしれない。剣山のエネルギーは、大斎原に結びついていると聞いた。那智の瀧は、海と繋がり、高野は沈黙する。熊野が異界なら、高野山は冥土。

すっかり暗くなって、黒々とした高野山を降りるときに、お助け地蔵と大きく書かれた場所で、カモシカがじっとこちらを見ていた。なんでこんな場所にいて、しかも逃げないのだろうと、かなり不思議に思って通り過ぎ、しばらく進んでいたら、道に迷った。ちゃんと地図は確認していたけど、いたるところ工事中で、不確かだった。直前まで陶芸家さんと深い話をしていたせいか、黄泉の国に入ってしまったのかと思った。真っ暗で心許なく、不安になってきたので、決心して慎重に夜道を引き返すと、カモシカが同じ場所にいて、こっちを見ていた。ああ、なるほどと思った。救われたような気がした。

一人のとき、なんかおかしいな、とちょっとでも感じたら、迷わず引き返すのが、山の鉄則らしい。ここまできたのだから、とか、きっと大丈夫だろうと、自分を過信すると、せっかく降りてきてくれた直観を、見過ごすことになる。なにごとにも言えることで、そのことをカモシカは、沈黙の力で教えてくれたんだと思う。

カモシカは好奇心が強いので、人間に出会っても逃げずに立ち止まることがあることは知っている。でもなぜ「お助け地蔵」の前だったのだろうか。なぜそのあと自分は道に迷ったのだろうか。なぜ帰りを待ってくれていたのように、ずっとそこに居続けてくれたのだろうか。その謎を解く鍵は、他人ではなく、自分のなかにある。

人間はなにかを確信すると、それに見合った世界観を生成する。信じる力は、生きることを肯定してくれる。どんな世界観も見せてくれる、万物の内在的な原因こそが、神(自然)だと思う。



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