2014/10/25

ブナの森②


早朝からブナの原生林に。紅葉の登山客を避けて早めに家を出たら、鹿ではなく、イノシシが出迎えてくれた。数日前に美しいイノシシの顎の骨を拾ったばかりだったので、点と線で結ばれていく物語が感じた。

ブナにとってのほんとうの天敵は、鹿でもイノシシでもなくて、人間だと思う。なんの役に立たないからと切り倒されて、原生林はほとんどなくなってしまった。だけどそのかろうじて残された原生林を守ろうとしているのも、人間。意識では捕らえにくくても、追いこまれても在り続ける小宇宙に、美しさを感じるからだと思う。

登山における道迷い遭難のほとんどは、(あれ、おかしいな)と思う瞬間を見過ごすことにあるという。この時点でもと来た道を引き返せば、正しいルートが見えてくる。道を間違えたことを認めたくないという心理が働くと、この「引き返す」という決断がなかなかできなくなる。本能はスサノヲのように多面的で、道なき道を切り開くような生命力がある一方で、母の国へ戻りたいと泣き叫ぶ子供のような一面もある。そんな観察するまでわからない素粒子のような状態でも、自分の都合や好き嫌いを越えた直観(インスピレーション)が、全体の生命を支えてくれる場面がある。

ブナの森にフレームインすると、絵画のような世界が迫ってくる。ブナは木ではない(木無)と呼ばれる以前に、別次元からの根拠を持っている。その根拠の方に視点を動かすと、自分の内側になにかが流れてきて、その泉から敬虔な気持ちがあふれてくる。その内にむかって注がれてくる霊的感覚が存在の根拠であり、本質だと思う。

ジャコメッティという画家(彫刻家)が、木を描こうと森に入る。彼は木を描こうとして、木を見ているのだけど『俺が木を見ているんではない、木が、俺の方を見ているのだ』と感じる。たくさんの木に見つめられ、その視線の沼から、どうにかしてそこから抜けだそうとする力が、描くということだという。注がれてくるもので溺れそうになるからこそ、作品を作るというジャコメッティの態度(木が私を見ている)は、きわめて正確で誠実だと感じる。

自分を超えた存在への敬意とは、全体の生命を支えてくれる世界への恋文だと思う。散るからこその秋を愛おしみ、やがて来る冬への備えを希望に変える。荒ぶれる魂と戯れて、流るる水のような清らかな調和を保つ。獣の心と静かな心。この葛藤に拠り所を作ることができるのが、人間ではないだろうか。




2014/10/08

紀伊国

熊野から高野山に。

紀伊続風土記では「熊は隈であり、籠もるという意味。この地は山川幽谷、樹木鬱蒼だから熊野と名付けた」とある。たしかに紀伊国には、隠れ、籠もるイマージュがある。台風が近づいていて、天気が崩れかけていたのは幸いだったのかもしれない。日本の森はカラっと晴れているよりも、湿っている方が本質的に思える。

熊野に惹かれているのは、異界を感じているからだと思う。深い眠りを導いてくれる、死と緑の世界。一時的に死(仮死)を受け入れ、霊界に籠もり、そこで新しく再生して、目覚める。


紀伊国はパラレルリアリティを感じさせてくれる。宇宙が多次元構造であったなら、もうひとりの自分の影に、もしかしたら出会っていたのかもしれない。時空の違う自分から、影響を受けているのかもしれない。剣山のエネルギーは、大斎原に結びついていると聞いた。那智の瀧は、海と繋がり、高野は沈黙する。熊野が異界なら、高野山は冥土。

すっかり暗くなって、黒々とした高野山を降りるときに、お助け地蔵と大きく書かれた場所で、カモシカがじっとこちらを見ていた。なんでこんな場所にいて、しかも逃げないのだろうと、かなり不思議に思って通り過ぎ、しばらく進んでいたら、道に迷った。ちゃんと地図は確認していたけど、いたるところ工事中で、不確かだった。直前まで陶芸家さんと深い話をしていたせいか、黄泉の国に入ってしまったのかと思った。真っ暗で心許なく、不安になってきたので、決心して慎重に夜道を引き返すと、カモシカが同じ場所にいて、こっちを見ていた。ああ、なるほどと思った。救われたような気がした。

一人のとき、なんかおかしいな、とちょっとでも感じたら、迷わず引き返すのが、山の鉄則らしい。ここまできたのだから、とか、きっと大丈夫だろうと、自分を過信すると、せっかく降りてきてくれた直観を、見過ごすことになる。なにごとにも言えることで、そのことをカモシカは、沈黙の力で教えてくれたんだと思う。

カモシカは好奇心が強いので、人間に出会っても逃げずに立ち止まることがあることは知っている。でもなぜ「お助け地蔵」の前だったのだろうか。なぜそのあと自分は道に迷ったのだろうか。なぜ帰りを待ってくれていたのように、ずっとそこに居続けてくれたのだろうか。その謎を解く鍵は、他人ではなく、自分のなかにある。

人間はなにかを確信すると、それに見合った世界観を生成する。信じる力は、生きることを肯定してくれる。どんな世界観も見せてくれる、万物の内在的な原因こそが、神(自然)だと思う。