2014/06/15

必然の糸

天気がいい。屋根の上にふとんを干せる日は、それだけでうれしい。太陽の光を吸ってふわふわになると、雲のうえに乗っているような心地が得られる。ささいなことなんだけど、こういうことに感慨を受けるようになってきた。

年をとったからというよりは、世界の感じ方が変わってきたからだと思う。近すぎて見えなかったこと、世間には見向きもされないような、当たり前で単純なことに、意識が向くようになっていた。以前はあまりそうではなかったから、変化を見つめずにはいられない。リアリティだと思う。なにが原因で燃えているのかわからないような火事を安全な場所で眺めるよりも、自分で薪を手配して、着火して、一瞬として同じ形なく燃えあがる炎を、煙が目に染みたり、水が抜ける音が聞こえたり、火の粉が飛んでくるような具体性を通して、内なる世界との関係においての、現象との距離を確かめたいという思いが、いつのまにか芽生えていたのだと思う。

自分が変わる(変わらざるをえない)節目というものがある。幼少のころ、誰にも言えないようなこと、出逢いや別れ、痛みや哀しみ、環境の変化。いろんな要因が重なっていて、ああ、たぶんあのころだよなと、人生が交響曲だとしたら、それぞれの変調のタイミングを思い出せる。ただ振り返ると、あれはなんだったんだろうと不思議に思うことはある。

2011年の3月、思いきってアトリエを大阪から徳島の神山に移した。11日後に大震災、原発事故が起きた。そのときにはうまく把握できなかったけど、極私的な変調と、自然の現象だけではない、ただならない出来事がリンクしていた。世界の感じ方という内的世界と、変わらざるを得ないという外的世界の状況が、折り重なって存在していた。人間の意志をも支配している必然の糸があるとしたら、その糸を「私」はどう編んでいくのかという哲学が必要だった。

世界と私はけして切り離せない関係なのだから、自分の本性の根底に降りていくときに、世界の感じ方(愛し方)も変わっていくのは、ごく自然なことなのだと思う。内なる目で外的世界を見つめるとき、覚悟を決めている創造主の気配に出逢えることがある。それは幻覚ではなくて、内部に映し出される宇宙の構造だと思う。現実に起こることは、きっと内なる育みを投影している。




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