2014/06/05


密林の絵を描き進めている。こっそり教えてもらった屋久島のガジュマルの森で、整備されていない野蛮な蜘蛛の巣のような場所。特になんでもない構図の取材写真の一枚が光って、どうしても描かなければならない気がしているので、描いている。誰になにを言われようが、内なる声だけには逆らえないので、自分でもよくわからないままに手を動かしている。だから不安も大きい。

モチーフに迷うこともないし、絵筆を動かしているときも葛藤はないのだけど、手を止めて、ふと自分の絵を眺めるときに、いつも暗礁に乗りあげる。未熟さによる絶望は、意志の力でかすかな希望へと昇華できるのだけど、「なぜ描くのか」「なにをしているのか」「なんのために」という巨大な壁は、高すぎて登れそうもない。

『よく知られているように、間違いというものは、自分の仕事よりも他人の仕事の中に見つけやすいものだ。絵を描くときには、平らな鏡を使って、そこに自分の作品を映してみるとよい。すると、絵が左右逆に映し出される。そうすれば、誰かほかの画家によって描かれているように見え、じかに自分の絵を見ているときよりも、その欠点がよく見えるものだ』

ふとダヴィンチの言葉を思い出して、鏡を持ってきて、背中から絵を見ていた。欠点はよく見えるけど、壁の正体はわからない。そのまま関心はカムイの方に向かっていた。犬は自分をどう見ているのだろうかと、顔の前に鏡を立ててみた。

カムイは退屈そうに、鏡に映る我が姿にはまったく興味を示さなかった。しかし鏡ごしに映る自分を見ていた。目が合ったときに、はっとした。見られるものが、見ているものを観察していた。カムイにとっての最大の関心は、生命線である飼い主。どのような姿をしているかなどに興味を持つのは、自然を切り離し、野性を失って、その代償に「私」を獲得してしまった人間だけなのだろう。当然といえば当然なのだけど、目から鱗が落ちた。左右逆転の世界から、黒い犬に見つめられていた。

悩んで学んで、三十を過ぎてから油絵をはじめた。スタートが遅かったのは幸いだった。技術を覚えるたびに、確かな充実があった。押しつけられた貧困は我慢ならないけど、自ら引きこんだ貧しさは豊かだった。その豊かさのなかで、目覚めていく感覚があった。夢ではないなにかが現れた。仏僧は色のついた砂で曼荼羅を描き、完成したら吹き消す。不毛のように見えるけど、その儀式は、一人の人間の限界を、限ることができない方向に広げてくれている。夢ではないなにかとは、たぶんその方向に向かって伸びている、影のようなものだと思う。

人が手段を探すのは、不確かな領域に確実性(手応え)を与えたいからだと思う。たとえば路傍の石でさえ、内なる力で結ばれれば、霊性を帯びる。物質的な価値は、その人の意識を通して変容(メタモルフォーゼ)する。科学では測定できないその魔法を確かめたいからこそ、手を動かしているのだろうと思う。ダヴィンチはこんな言葉を残してくれている。

絵画とは、あらゆる素晴らしい事物の創造主を知るための手段である。





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