2014/02/02

川の音が特別に聞こえる場所を知っている。ときどきそこに行って、川の音を聴く。その地点では、川の音の波動力がとても強く、全方向から聞こえてきて、超立体的。はじめてここに立ったときは、いい場所を見つけたなと、感動した。なんでもない茶畑の奥なのだけど、自分にとっては天空の音楽堂であり、超自然を感じいるために用意された瞑想空間だ。川はつねに音を発していて、やむことがない。慣れてくると、川の音が聞こえているだけで、ああ、川があるな、という、なにもののおわします存在に、包まれるような安心と畏れを、立体的に身にまとうことができる。その安心が、静寂にシフトする瞬間というものがある。轟音なのに、うるさくない。泥の河なのに、透明になってしまう。音が音として自分に、同期(リンク)する。自分が自然だからこそ、リンクしてしまう現象なのだと思う。川の轟きが大きいほど、静けさ(クレパス)は深くなる。意識が音に入っていくような洞窟の気配、なにものかに向かって、解けて(ほどけて)いくようなメタモルフォーゼ。川の持つ、まるで金太郎飴のような、やむことがなく、誰にでも開かれている永続性は、時間感覚を相殺してくれる真空であり、永遠回帰の扉なのだと思う。

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。「方丈記」

時間感覚を失いつつあるとき、その音を軸として、川が自分に向かってくるのか、自分が川に向かっているのか、よくわからなくなる。川は花とはちがって、見つめていても、見つめられているという気はしない。目に見えて動き、流れているからだと思う。植物も生きて動いている。だけども人間の目では追えないほど、ゆったりとした速度だ。

川のなかに、ひとひらの椿や桜の花びらが、流れていたらどうだろう。そこになにを、想うだろうか。浅い感傷心ではなくて、永遠に見つめられたまま、それでいて流されていくという哀しみと、勇気や底力がそこにある。川はその永続性をもって、人間の力では知ることはできないなにかを伝達しているのだと思う。





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