2013/05/19

      散歩コースにお気に入りの岩がある。おむすびのような形で、3mくらいある。


小さな石ころも大きな岩も 、よくよく観察していると、ほとんど姿は同じだと思う。10cmの石ころを100倍の大きさに拡大しても、そんなに違和感ない。川や山もそうだろう。地球起源の記憶を有している自然には、動植物では考えられないスケール感がある。徳島の土須峠を超えたあたりや、屋久島のモッチョム岳の下の巨石だらけの川を歩いてると、自分が蟻んこのようになった離人感が起きるのは、世界が相対的だから。相対的だから、容赦がない。ありのままの自然を目の当たりにすると、ちっぽけな自分が飲み込まれてしまうような、畏れを抱く。だけど次第に、自我を外して、ありのままの世界に敬意を払っていると、その自然に自分が溶けていくような、スケールに同調する兆しが訪れる。それはたぶん、相対から総体へと、観察者の視座が移動しているからではないだろうか。

相対的なスケール感のなかに、動植物は世界を感じて必死に生きている。だとしたら、きっと宇宙のどこかに漂っている石も、この(たまたま気に入ってしまった)石も、場が違うだけで、同じスケール感のなかにある。蟻が人間に気づけないように、人間が気づけない総体的な意識が、スケールそのものなのだと思う。人の目はカメラでいうところのレンズなのだとしたら、現象を相対から総体へと、焦点を切り替える機能は、太古から受け継がれてきた記憶のなかに備わっているのだろう。




津波に襲われても、海人は海を恨まない。やがてまた、海に戻る。それは人間は自然の一部であり、自然もまた、人間の一部であるという相互理解が心のどこかにあるからだと思う。わたしたちは鏡を見つめるようにして、悠久の時を超えて、大いなる自然が本当の姿を現すのを待っているのかもしれない。そのことを確かめるために、生命の寿命は定められているのかもしれない。
 
     『フェノメノン(現象)は、ヌーノメン(本質)のイメージ(象)である』P.D.ウスペンスキー




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