2013/02/16

踏みつけられた草

2013年に入ってからソローのウォールデン(森の生活)を読みすすめている。それと最近手に入れたアンドリューワイエスの画集。この二冊はいまの僕にとっての霊源であり、玉手箱。それで昨日、ふと気づいたことがある。それはどちらも生粋のアメリカ人ということ。僕はアメリカという国家には言いたいことはあるのだけど、もちろんアメリカ人(人間ということ)を憎んではいるわけではない。これは当たり前のこと。でもそういう当たり前でシンプルなことが、複雑怪奇な国家構造、型にはまった大人社会から見すごされているような気がする。そんなふうに忘れそうになる大切なことを、ふたつの名著は、作品そのものの力で、違う角度から教えてくれた。

この時期の針葉樹の色に、心を引かれている。秋ほど高揚もしていないし、夏ほど朗らかじゃないし、冬と春にはさまれて、目立たぬように土色をしている。あの、焦がれ色。いままでなんとなく感じていたけど、なんとなくでしかなかったものが、ああこの色のことだったのかあ、という、大きな発見があった。針葉樹の焦がれ色に気づけたのは、ワイエスの色彩のおかげ。それから森で味わう孤独に味わいを与えてくれたのは、ソローの言葉。自分ではうまく把握できなかった気持ちや、見えないものに、過去から走り続けてきて、今にバトンを渡す誠実で勇敢な作品たちは、『きみ、いいいんだよ。それを信じていいのだよ』と、光を当ててくれる。人間は人間に対して、ギフトを贈り続けるのだなあと、あらためて思う。自分をごまかしたりなぐさめたりするだけのものではなく、ほんとうにすごい作品には、そういう時空を突破する力がある。自分を超えたおおきなもの、その全体のひとつの破片のような、大切な時間がある。だからものすごい作品によって、表現に関わるひとが絶望したり、人生が変わったり、自分が壊れたりすることには、かけがえのない救いがあると思う。バラバラに砕け散るのは、表面のメッキなので、そういうものは、はやいうちに砕いておいたほうがいいのかもしれない。

ソローはまず、湖のそばに自力で小屋を建てた。自然と語らい、歩くという身体のリズム、散歩を通して思慮を深め、自給自足で生活をして、そこから社会に、国家に、虚飾のない生の言葉で、不服従の狼煙(のろし)をあげた。ソローは二年二ヶ月のあいだ、ひとりきりの時間の沼のなかに自分を沈めた。どこからか響いてくる、自然との調和に耳をすまし、それを信じて、まるで楽譜に音符を連ねるように、言葉を残した。その後、文明社会に戻り、モーツァルトのように勇敢に作品を発表した。彼のまるでひとりごとのような人生の問いかけは、密教のような広がりがある。

ワイエスは神経衰弱で虚弱体質。学校に行くことすらできず、父の画業を手伝うことによって技が磨かれ、父もまた、自分を凌駕する息子の才能を悟り、その才能を遺言を手渡すように引き出した。ワイエス自身も病気によって死を彷徨い、はやくして父を事故で失い、心さえ彷徨う。空いた穴を埋めようとしたのだと思う。その穴の深さが、愛の深さなのだろうか。



写真は1951年作『踏みつけられた草』というテンペラ画。ワイエス自身はこの作品に対して「私の自画像である」と発言している。自分自身の足元を描いているので、だからこれは自画像であるという説明的な意味あいと、踏みつけられた草こそ、自分であり、それをしらずしらずに踏みつけている存在もまた、自分であるという宇宙的な広がりを含んだ発言だと僕は思う。だからその小さな一歩が、小さな日常のひとこまが、人間そのものの存在を端的に現してしまっている。このときワイエスは肺の大手術直後の千鳥足。一度は心臓が止まっていたらしい。本人はこう続けている。「だから、これは非常に主観的で、危険で、かつ不気味な作品なのである。私の好きな作品のひとつである」

 

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