2013/12/31

メメント・モリ


大晦日。焼山寺、奥の院へと続く雪山へ。山雀に囲まれて、タヌキの足跡を追いかけて、喉が渇いたら、雪を囓る。焼山寺の奥の院は目立たぬ小さな祠だけど、そこはかとない威厳がある。そしていつも誰もいない。目立たず、知られず、ひっそりと、ただ枯れて、散るだけの侘びしさと、無常というものが漂っている。ここですこしばかり、瞑想した。とは言っても、座っているだけのこと。頭だけが冴えて、高感度で覚醒する。

瞑想(Meditation)って、なんだろうか。わかったようで、わからないところがある。人それぞれの性質にピントが合った状況があると思う。自分の場合を考えると、たぶん画布に向かっているときが、それに近い状態だと思う。瞑想状態にあっても、もちろん手は動いているし、色の調合などはできる。だけど背後から名前を呼ばれたりしても、返事ができにくい状態にある。聞こえてはいても、対応しにくい。肉体労働にはまっているときによく似ていて、自分の体(マシン)を運転しているような酩酊状態。それでいて心身が消滅するような、なんとなく眠くなっているのに、意識が透明にメンテナンスされて、力強く冴えていくような態度。

メメント・モリ。目(覚)めんと、森(ヘ)。

死を想う時間なんだと思う。知覚の扉を半開きにして、あらゆる通路を確保する。第一の直観って、雑念や常識、世間体や情念など、あらゆる要素に揺さぶりをかけられて、消えてしまうものがほとんどで、第二、第三の直観に変容したり、記憶に保留されて、破片として夢の世界に散らばる。瞑想って、その揺さぶりを止める在り方の、ひとつの型(format)なのではないだろうか。

剣山山系を見渡した。下の方から、鐘の音が聞こえた。





タブラ・ラサ

タブラ・ラサ。

タブラ・ラサ(tabula rasa)とは、ラテン語で、白紙状態、何も書かれていない書板、という意味がある。感覚的経験をもつ前の心の状態を、比喩的に表現したもので、人間の知識の起源に関し、生得観念を否定する経験論の主張を概括する言葉。

空が崩れるような、暗く、厳しく、美しい吹雪。
長く続く雨の日や、いつもの風景が失われていくような白雪の時間には、タブラ・ラサを感じる。
原始の記憶を透過する、心の真空がやってくる。

One way to open your eyes is to ask yourself,
"What if I had never seen this before?
What if I knew I would never see it again?"
 Rachel Carson

(目を開くひとつの方法は、自分自身に問いかけてみることです。
もしこれが、今までに一度も見たことがなかったものだとしたら?
もし、これを二度とふたたび見ることができないとしたら?と)
レイチェル・カーソン



2013/12/08

鳥のように


鳥って、自然物と人工物の区別がない。自然と人工物を分けて考えてしまうのは、人間だけ。動物、とくに鳥は、場所を選ばず、電線や電柱なんかに、たくさんとまっている。とまり木が、枝なのか、電線なのか、それは眼中にない。潔く、生命のままに、過酷な状況を、ただ生きるのみ。それだけ。巣も、人間のようにローンを組んで買ったりしない。そもそも土地なんて、ほんとうは誰のものでもないはず。だから人家の軒下とか、電柱の上とかに、平気で巣を作る。それは野蛮ではなく、自然なこと。野蛮なのは、人間の方だろう。それがわかっているから、昔の人は、ツバメの巣ができる家は、縁起がいいと伝えてきた。鳥の巣を見ると、ビニールのヒモとか、糸くずなんかが混じっている。鳥を見ていると、間接的に、人間が、自然の一部なのだなと思い知らされる。

最近、変電所に行く機会があって、詳しい人に聞いてみたら、あれは50万ボルトの電流が流れているらしく、人が入らないように立ち入り禁止にして、鉄条網を張ってあるだけなのだけど、人間が指一本でも触れたら、感電して、ほとんどの場合、即死するそうだ。ただし鳥は、いくら止まっても平気。大地に足がついていないから、電気が入っても、抜ける場所がないで、電流にならない。人間でも、鳥のように体だけで飛びつくことができれば、全毛が逆立つだろうが、いくら高圧でも、感電しない。しかしほんのわずかでも、べつのなにかに触れていれば、感電死する。自分の作ったものに、自分が破壊される。人間が、人間に、破壊される。鳥のように、自由にはなれない。蛇なんかでも体が長くて接地面が大きいので、感電するそうだ。あのほんのごく小さな足の裏の接地、なにものにも依存せずに、自分の力のみで飛べる鳥にしかできない、不死身。その話を聞いたとき、みずからの体を炎に投じて、だからこそ何度も蘇り、再生する不死鳥(火の鳥)のイメージが重なった。

この重力の世界で、自分の力だけで、空を飛ぶということが、どれほど過酷で、どれほど自由なのだろうか。

『<われ>であってはいけない。まして、<われわれ>であってはなお、いけない。くにとは、自分の家にいるような感じを与えるもの。流竄の身であって、自分の家にいるという感じをもつこと。場所のないところに、根をもつこと』
Simone Weil

鳥は、場所のないところに、根を持っているのではないかという印象を、人間に与えてくれている。そして、その声。鳥はその妖しくて美しい声で、言葉にならないことを表現している。鳥は人間にとってのメッセンジャーであり、神の使者なのだと思う。神即自然。わたしたちの魂は、どこから生まれ、どこに行くのだろうかと。そのような謎を背中に乗せて、いつの時代も、なにかを伝えようとしてくれている。





2013/11/24

神即自然



空(犬)が車にひかれた。

幸い命に別状はなく、骨も折れていない様子だ。森で放し飼いで遊ばしていたら、突然まっしぐらに道路に降りてしまった。ぶつかったのは、大量の犬を乗せた謎の軽トラック。その軽トラが近づくと、空のタガが外れるので、妖怪犬車と名付けて、日頃から注意していた車。その妖気を、空は樹林のなかで感じてしまった。離れていても、人間とは感度が違うことを、忘れてしまっていた。人間の尺度で、考えていた。足の速さに追いつかず、走る森のなかで、なにかがぶつかったドンっという低くて鈍い音と、キャンという高い悲鳴だけを聞いた。内心、ああ、死んだな、と思った。あわてて森を降りて、現場に着くと、空はいなかった。そこには空の毛の塊が落ちていた。軽トラのじいさんに聞いたら、ぶつかったあと、下(しも)のほうに走っていったというので、追いかけた。すると家の前にいた。パニックになって、帰省本能で疾走したのだと思う。ほっとした。前足のつけねの皮膚が大胆にベロンとめくれて肉が出ていたが、それほど血は出ていなかった。歩き方も自然に見える。だから病院には行かなかった。手をかけて、自然治癒を見守ろうと思う。夜になって、極端にびっこをひきはじめた。本当の痛みは、影のように。後からジワジワついてくる。しばらくは、脳内の興奮物質で痛みを感じなかったのだろう。人間と同じだなと思った。傷を執拗になめて、いきなり老犬になったように、おとなしくなった。鈍い痛みがあり、本能が安静を強要しているのだと思う。しばらくは、外で遊べないけど、生きてくれてよかったと思う。
 
たかが犬。だから考えたい。

首輪を外した自分の不注意を、棚にあげるつもりはないし、自家中毒になっているつもりもないし、犬に自分を投影しているつもりもないけれど、突然ボロボロのガリガリで家にやってきたこの犬には、生命力に裏打ちされた、強運がある。以前も一度、車の正面に飛び出してしまった。ほんとうにギリギリの急ブレーキをかけてくれたおかげで、助かった。そのとき長縄を引いたときの摩擦で、手のひらが擦れて、血で焼け爛れた。それくらいやんちゃで、でかくて、力が強い。だから捨てられたのだと確信できる。当初はおびえて、他人を噛んだこともある。謝り倒して、許してもらった。慣れないうちは、自分も何度も噛まれた。拾うのが数日遅れたら、保健所で死んだろう。そこも強運だと思う。ヨダレが異常に出る。わがまま。外に出たがる。遊びたがる。女好き。臆病。無駄吠えする。拾い食いをする。ほんとうにめんどくさい性格だけど、それが動物。野性と思う。目に物言わぬ力があり、観察しているだけで、忘れかけたなにかを思い出させる。走り回っている姿を見ているだけで、元気になれる。救ったつもりが、救われているのだ。感傷的になるつもりはないけれど、怪我をさせてしまったことにたいして、胸が締めつけられた。自分だった方が楽だとも思った。人間が創ったもの(道路と車)に、その人間が被害をこおむる。達観すれば筋が通るから、ただの不運。なにも言いたいことはない。だけど、なぜ一匹の犬が、大量の犬を乗せて人間が運転する謎の軽トラックに、ひかれなければならないのだろうかと。過酷な土地、その生活のなかで、生き抜くための捕食、打ち立てられた神話のなかで、犠牲になるのとは違う。突然やってきたこの犬は、人間(自分)、または現代に対して、明確に問題提起をしてくれている。

空(犬)を家のなかに保護したあと、森のなかにカバンをそのままに置いていたので、取りに帰ったら、足元にケセランパサランを、ふたつだけ、見つけた。今年の一月に見つけて以来、いくら探しても、見あたらなかった。それが今日、たまたま見つかった。しかも、ふたつしかなかった。ケセランパサランとは、なんだかよくわからない綺麗な羽根のついた、まるで森の妖精のような種子。この謎の美しい種子は、江戸時代から妖怪と呼ばれていた。空は二度、車という妖怪に吸い寄せられて、二度とも、助かっている。ケセランパサランは、自然の霊。きっと、動物を人間の業から守る妖怪なのだと思う。(ケセランパサラン)http://kazuyasakaki.blogspot.jp/2013/01/blog-post_5.html

                                                                         ★

毎晩犬と一緒にジョギングをしているけど、しばらくは一人だ。昨夜の月も、綺麗だった。百年前も百年後も、百万年前も百万年後も、なにも変わらず、きっと同じように、美しいのだと思う。

『神即自然(deus sive natura) 』スピノザ
 



2013/10/21

マレビト

鹿の声で目を覚ました。山の奥から響いてくる鹿の声は、もの哀しく、心と体に染みこんでくる。

思い返してみると、いつもなにか、自分にとって節目のようなタイミングで、鹿に出逢っているような気がする。自分はとくに鹿に思い入れはないので、だからこそなにかあるのかな、と勘ぐってしまう。

入山禁止になるほどの大雨の白谷雲水峡で、用心深いはずの屋久鹿の家族に囲まれたことがある。全身真っ黒な服で直立不動していたので、きっと見えなかったのだと思う。神山に住むことに決めて、十数年ぶりに登った剣山では、ニホンカモシカが信じられない距離に近づいてきた。それ以来、何度も登っているのに、一度も見かけていない。神山に住みはじめたとき、いきなり大きな鹿の頭蓋骨を河原で拾った。それからも探したけど、それきり一度きりだった。つい最近も、唐突に立派な角を持った雄鹿に出逢った。たまたまといわれればそれまでなのだけど、自分にしかわからないような、まるで励ますような気になるタイミングで、鹿は出現しているような気がする。そういうタイミングで出逢うとき、頭が真っ白になる。いろんな記憶が脳から飛んで、なにも考えられなくなり、±0になる。神仏に手を合わせたときにも、そんなふうになる。だから願い事ができない。言葉が脳にないので、願えない。

たまたま鹿の親子がいる絵を加筆しているときに、山から鹿の声が響いてきたことが何度かある。そのときは絵に励まされているような気がしたのだけど、はたしてこの「たまたま」というものが、自分がしかけたのか、それとも鹿にしかけられたのか、それがよくわからない。

自分にとって鹿は、マレビトではないかと考えはじめている。
『まれびと、マレビト(稀人・客人)は、時を定めて他界から来訪する霊的もしくは神の本質的存在を定義する。常世とは死霊の住み賜う国であり、そこには人々を悪霊から護ってくれる祖先が住むと考えられていたので、農村の住民達は、毎年定期的に常世から祖霊がやってきて、人々を祝福してくれるという信仰を持つに至った。その来臨が稀であったので「まれびと」と呼ばれるようになったという』from wikipedia

人ではないけど、マレビト。この世とあの世を紡ぐ使者ではないかと。鹿は鹿。それ以上でも、それ以下でもない。だから鹿そのものがただならない気配を出しているのではなくて、化身。鹿の背後に、天岩戸のような、時空の裂け目のようなものがある。鹿との関係は個人的なことなのだけど、誰にでも、おしなべて平等に、そのようなマレビトが出現しているのではないかと推測する。世界への理解を促す、きっかけのこと。通常的に反応する力学、そうそう、私もそう思う、いいね、というのは、共感であり、共有の感応だと思うのだけど、共に感じるその先に、理解という扉がある。理解に向かうとは、いまだ明かされていなかった場所を自灯明で照らすことであり、それは言い換えれば、自分の地図を広げていくことにも通ずるのではないだろうか。

意識ってたぶん、羅針盤のような動きをしていて、アンテナをどこに立てているかで、地図も変わる。針を揺らしているのが人為的な力なのか、天空や地下世界のような、自然の力なのか。それぞれ運命にとっての、マレビトを迎え入れることができれば、その使者の道案内で、地図そのものが書き換えられていくのかもしれない。地図が広がれば、視野も広がる。


2013/09/08

無心時間

昨日今日と、雨の合間を縫って、伸び放題だった草をむしっていた。土が濡れていると、地面がやわらかくなるので抜きやすい。草を抜くときに、ビリビリビリっと手のひらに、雑草の小さな声が響いてくる。まるで交換電流のように。その響きが、快感として、雑草からなにか力を分けてもらっているような気がしている。雑草の魂が、手のひらから入ってくるというのか。雑草は、勝手に伸びている。ちょっと目を離したすきに、問答無用で根を張って生き生きと生きている。そういう生物としての逞しさが、具体的なリアリティとして、手のひらから、ビリビリビリビリと伝わってくる。それは小さな響きなのだけど、自分でも気がつかないような、心の奥の襞を、揺らしているような波動がある。雑草を抜いているとき、きっと土の世界を感じているんだと思う。草と関係を持つことによって、見えていない地下世界の営みと、植物の時間感覚を、手のひらで受け取っている。だから小さな響きでも、心の深いところで、波紋のように広がっていく。

むしっているのは、おとなりの樋口のじいさんの土地だけど、じいちゃんは今、風邪で入院している。じいさんのいない間に草が伸び、荒れ放題になるのは、ちょっと心苦しいという気持ちが、自分を草むしりに駆り立てた。たかが草むしりだけど、されど草むしり。無心になれる、その運動のなかで、手のひらから入ってくるエネルギーがある。根を張っている地下世界は、外からは見えない。派手に騒いでいる表層は、ぐんぐん進んでいる、その地下世界の、複雑に満ちた営み、その混沌に起因している。そのカオスにアクセスしているということは、普段、意識している惰性の日常から抜け出して、心身が旅をしていると言えるだろう。心が地下に、潜っていく。なにも考えずに草むしりしていると、日常でパターン化されている時間のリズムが消えている。腹が減ってきたとか、また雨が降りそうだなとか、風の匂いが来たな、とか、そのような肉体として感覚機能に敏感になり、霊感が研ぎ澄まされて、内と外が草と土の匂いを介して、エネルギーが交流する。外から見ればつまらない単純労働に見えるだろうけど、そうではない。小さいながらも、草といういのちを摘み取っているという経験値と、草に隠れて見えていなかった、あらゆる昆虫との新鮮な出逢い、見えない世界への心の沈殿は、流行っているので、それじゃあいこうか、という表面的な旅よりも、内在経験としての哲学の芽吹きがある。いたって地味に見える無心時間のなかに、静かに落ちて波紋する一滴の無心の汗は、人生を記憶している。





2013/08/29

神通瀧



自分をリセットしたいときに、ここに来る。

なんとなく心がざわざわして、気が乱れているなあ、と感じたら、迷わず出かけていく。するとリセットされて、±0になれる。この0というのは、なにもない状態ではなくて、ブラックホールのように、淀みなく無尽蔵に、いろんなものを取りこめる真空の状態であり、意識の源泉だと感じている。気が元に戻るから、元気になれる。無限の空間を満たしている潜在意識は、きっとここから流れ出てくるのではないだろうか。


『私は恍惚状態で睡眠と覚醒の間をさまよっている。意識はまだあるが、失おうとするちょうど境目におり、霊感に満ちた着想が湧くのはそんなときだ。真の霊感はすべて神から発し、ただ内なる神性の輝きを通してのみ、神はご自身を顕すことができる。この輝きのことを、現代の心理学者は潜在意識と呼んでいる』ブラームス

『我々は霊を定義できないが、身につけることはできる』老子






2013/08/15

月影

黙祷の焼山寺から帰宅後、昨晩焚いた、玄関先の迎え火の蝋燭の缶のなかに、ヒグラシが黒こげになって横たわっているのに気づいた。昨日の暗い夜を彷徨って、炎のなかに、飛びこんでしまったのだと思う。飢えた老人(帝釈天)を助けるために、自らの身を食料として捧げるべく、火の中へ飛び込んだ月の兎を思い出した。昨晩、迎え火の写真を見たときに(ああ、太陽のように見えるなあ)と思っていたので、深く考えさせられた。真夜中の太陽が燃えつきて、真昼の月になったのだ。その月影は、ヒグラシの捨身。今日が終戦記念日ということも、偶然ではないと思う。

 


最近ちょっと不思議なことが続いている。とりたてて話すようなことでもなく、誰の前でも平等に在る自然や、個人的で見過ごしてしまいそうな小さき事象を、大きな目で観察しているだけなのだけど、それが現実に、目に見える形やタイミングで具現化するのを体験し続けていると、信じる気持ちというものの奥深さと、無限性を実感する。




こうして写真を時間軸を逆にして眺めていると、まるでヒグラシが燃えていたかのように思えてきた。ほんとうはそうではないという科学的な検証も、この強い確信を揺るがすほどの腕力はない。私たちは時間とは過去から未来に流れているのだと、当たり前のように思っているけども、肉体を超越した存在なら、まるで鯉が瀧を昇るように、未来から過去にさかのぼることもできる。いまこのように生きていられる奇蹟を思い出させるために、ヒグラシは終戦の日を狙って、炎に飛びこんだのだろう。


2013/08/02

弔い

蟻を観察していて、とても不思議な光景を目にした。

蝉の亡骸のまわりに、蟻がたくさん集まっていた。(ああ、集団で巣に運ぶんだな)と思って見ていたが、いっこうに運ぼうとしない。よく見たら、蝉のまわりに、落ち葉や小さな種が、取り囲むように添えてある。さらに小さな蟻が、懸命に葉と種を運んでくる。まるで蝉の葬儀。蟻が蝉を、弔っているのだ。蟻にとって、蝉の亡骸は貴重な栄養源のはず。なのに巣に運ばずに、周りに葉や種を添える意味がわからず、まるで自分を疑うように観察.していたが、小さな蟻は、確かに葉と種をわざわざ持ってきて、横に置いたのを確認した。それから蝉の亡骸の近くでは、まるで相反するように、生まれたばかりの、なんだかよくわからない小さな幼虫が、蟻の集団に襲われていた。

蟻の魅力は、機能美だと思う。無私であり、迷いのなさ。それでいて、昆虫ならではの不思議な直観が働いている。たとえば長い棒のようなものを運ぶとき、一匹が端っこに噛みついて、運ぼうとするが、重すぎて、動かない。すると、すすっと別の蟻が来て、反対側を持つ。見ていたとは思えない早さで。実際、仲間が困っているのを、目で確認したりはしていないと思う。そういう回路ではなくて、状況によって、体が正確に反応している。虫のみならず、動物、植物、森羅万象、生きとし生けるものすべてが有している、直観的感応力だと思う。もちろん人間にも備わっているものと、確信している。頭よりも先に体が動くような場面は、意識していないだけで、それほど珍しいわけではないのだから。

子どもの頃から蟻を見るのが好きで、大人になっても変わらない。蟻の動きは、世界の感じ方を教えてくれる。蟻は人間(観察者)によって態度を変えたりしない。蟻を踏んでも、蟻は人間を恨まない。蟻は人間という観察者には、気づけないようなシステムのなかに存在して、世界を構築しているから。同じことが、人間にも言える。人間は、自然を愛することはできても、逆らえなし、恨めないし、抗えない。人間が自然に逆らうようなことをしていれば、蟻が人間に気づくのと同じで、生命の秩序が崩れて、自滅の道を辿るのだと思う。そのことは、直感的にわかる。蟻と人間との違いは、そのようなシステムのなかに存在している理由のことを、考えることができること。自分をミクロにしてみたり、マクロにしてみたりして、自然に同期したり、心を運動させることができること。それが人間の大いなる可能性。
 
蟻の営みを、人間(自分)が見て、どう感じるか。僕は蟻による蝉の葬儀を見て、ある私的な記憶が結びつき、そのあと、幼虫を襲う残酷な場面を見て、ちっぽけな自分史と、壮大な生命の世界が交錯した。その接点において、本質の陰影を見たような気がする。言い方を変えると、美しいと思った。
 

 
 
 

2013/07/15

カムイ


雷雨のさなか、ヒグラシの大合唱が響いてきた。まるで天空に鳴く、ワッカ・ワシ・カムイ(水のカムイ)。

遠雷が響きはじめると、空(犬)が極端におびえはじめる。あれは動物ならではの、研ぎ澄まされた感受性で、神威(カムイ)を感じているのだと思う。

【カムイ】(kamuy, 神威、神居)は、アイヌ語で神格を有する高位の霊的存在のこと。

犬が雷鳴や地響きにおびえるのは、その音の正体がよくわからないからなのだろう。吠える対象を失い、おそるべき強大な暗力の存在だけを感じて、その支配力から逃れようと、だからパニックになる。これは人間でもよくわかる。脅威に対して、原因を探り、分析を繰り返し、安定をはかる。雷のことを知らない赤ちゃんは、雷ではなく、轟きに泣く。現代科学は雷がどういうシステムで発生して、なぜ起こるのか、その知識を、万人で共有している。だから犬のように混乱はしないのだけど、世界はいつだって混乱している。

時計を分解しても、時間のことはわからないように、メカニズムを知ることと、本質を知ることはまるで違う。暑い日に打ち水をしたときに、なぜ空中に虹が発生するのか。その仕組みを知ることはできけど、そのときの虹との関係のなかで生まれている、心の動きを説明できないのなら、その手法で虹というものの正体を知ることはできないと思う。

人間とは根源的に、時間的存在であるとしたら、カムイとは、時間的制約から解き放たれた幻。時間をかけて、時間に許されたものの御影(みえい)ではないだろうか。人間の手で作られたものでも、何千年、何百年と受け継がれてきたものには、カムイが宿っている。そうでないものは、崩壊しているのだから。



追記 2014.3.9

ある日、首輪のついた黒い犬を見かけた。うろうろしている背中がとてもさみしそうで、あれは捨て犬ではないだろうかと、ずっと気になっていた。保護しようと思ったけど、夜はどこかにいなくなる。冷たい雨の夜だった。ふと強烈に思い出した。いまどこで、なにをしているのだろうか。おなかが空いてはいないだろうかと。

犬は言葉を使わない。即ち、概念のない世界に生きている。彼らはわたしたちを、どういうふうに見ているのだろうか。どう見られているのだろうか。わたしたちは言葉から生まれて、つねに概念に囚われている。動物は毎日、新しい太陽を見ている。人間は夜がすぎれば、朝が訪れることを知っている。夜が終われば朝が来る。だけどそれだけで、太陽を知っていると言えるだろうか。はじめて太陽を見るような、あの感動はどこにいるのだろうか。わたしたちの目は、なにも見ていないし、なにも知らないのだと思う。この雨に震える犬は、きっとわたしたちを、世界から見つめている。

翌日、黒い犬を保護した。カムイと名付けた。

カムイはまるく、自分を包みこんで眠っていた。冷たい雨の夜、自分はこの姿を幻視した。カムイを保護して何人かに、そんなに拾ってばっかりいたら、そのうち家が捨て犬だらけになるよ、と言われた。それを冗談と受け止める余裕はあるけど、すこしさみしい気持ちになってしまった。世界中のかわいそうな状況を救うことはできないし、そのような積極的な仏心が、自分に備わっているとも思えない。ただ、出逢ってしまい、宿ってしまう、心象世界での約束というものがある。そこにたいして、自分をごまかしたり、いいわけを探したりということは、自分にはできない。

ようするに、自分を守りたいのだと思う。死守したい真空があり、その裂け目に潜んでいる神秘が、天命を握っているのだと理解している。ひとりの人生には限りがあるのだから、縁があれば、迷わずひきこめばいいのだと思う。たかが捨て犬が、わたしたちの三次元空間に、新しい座標軸をひいてくれることがある。カムイとは、時間的制約から解き放たれた幻。


『俺は、すべての神秘を発(あば)こう、宗教の神秘を、死を、出生を、未来を、過去を、世の創成を、虚無を。幻は俺の掌中にある』アルチュール・ランボー「地獄の季節」

『あすこはさっき曖昧な犬の居たとこだ』宮沢賢治「ガドルフの百合」


追記 2014.3.26

カムイ(犬)の飼い主が見つかりそうにないので、うちで飼うことにした。

公共機関でもネットでもオープンにしたし、新聞(アドネット)にも載せた。コンビニにもずっとポスターを貼らせてもらっていたし、猟友会にも探してもらったから、捨てられたのは確定だと思う。

手に負えなくなったら、捨てればいいと思っているんだろうな。誰かが面倒みてくれるだろうと、勝手に思っている。捨てられたものの気持ちや、後のことなんて、考えられないのだろうか。人間(自分)は。
よくある話だし、自己愛を重ねたり、感傷的な気持ちに溺れて、酔っているつもりはないけど、空やカムイは、探してもらえない悲しみ、疎外の反美学を背負っている。言い換えれば、孤高。それでも空(くう)とカムイ(神威)は、人間を恨んだり、憎んだりしていない。

カムイは噛み癖がひどい。

見ただけでは安心できないので、噛むことによって、その歯ごたえで世界を知り、確かめようとする。甘噛みだけど、牙がささるのでけっこう痛い。これはどうにかしなければと思って、いい方法を知って、鹿の角を与えてみたら、角の形におびえていた。目から鱗。斬新だった。おもしろいので、手に持って揺らしたら、角に向かってワンワン吠えている。いまはもう慣れてガジガジ噛んでいるけど、はじめて見る形そのものに、なにかを感じていたんだろうと思う。レイチェル・カーソンなら、センス・オブ・ワンダーと呼んだろう。

概念があったら、こんなことはありえない。でもまだ純白な子どものころなら、人間でもありえる。空も鹿の背骨の形を怖がっていた。モノだから、噛みついたりしないから大丈夫だよ、という理屈は、動物には通らない。人間が、成長するに従って太くなるパイプ(回路)とは、違う回路で世界を感じているから。



再追記 2014.3.26

鹿の角が一晩でこんなになってしまった。カムイと鹿の角はよほど相性がいいらしい。もっと角を手に入れないと。でも鹿の角のような、形そのものに神気が宿っているものって、探すと見つからない。ケセランパサランもそう。出逢いはいつもセレンディピティ。




話の角度が変わるけど、上の写真は夕方に撮ったもの。下の写真は朝に撮ったもの。まったく同じ場所。カメラのことはあまり詳しくないので、オートフォーカス。ほんのすこし露出過多の、いつも同じに設定にして、フラッシュが焚けないようにしてある。

朝と夕で、これだけ色が違う。

もちろん写真が目に映ったそのままの色ではないとしても、普段の目は時間をともなっているので、光の波長の違いが、よくわからない。こうやって見て、はっとする。裏を返せば、こんなふうに確認しないと、はっとできない。人間が時間だから。

カムイは(自分の神話のなかでは)時間的制約から放たれた存在なのだけど、人間は暗室という外部装置(カメラオブスクーラ)によって、はじめて自分の存在を確認できる。

モネの連作を思い出していた。

ルーアン大聖堂は、光によって存在感を変える。見るタイミングによって、見え方が変わる。モネの無意識は、このことを丁寧に伝えずにはいられなかった。人は見たいように、世界を見ている。だけどほんのすこし角度を変えれば、見え方は広がる。多面的に世界を見て、やっと物事が俯瞰できる。そこでやっとスタート地点、ほんとうの豊かさに出逢う旅が始まるのだと思う。

色というのはほんとうに不思議で、人間の思考では底が見えないような奥深さがある。その色にどういう意味があるかというよりも、むしろ、なぜそのように見えているかを考えたいと思う。意味を超える神秘への理解は、日々の生活に哲学の種をもたらしてくれるから。

2013/07/06

我心

突然やってきた犬(空)が、川ではしゃいでいるのを見ていると、それだけで自分まで解放されたような、無私の気持ちになる。たぶんそれは、自分と捨て犬との接点が、曖昧になっているからだと思う。拾ったのか、拾われたのか、飼っているのか、飼われているのか、捨てたのか、捨てられたのか、西行が「いかにかすべき我心」と悩み続けた我心(わがこころ)が、いったいこの世界のどこにあるのか、よくわからなくなる。

だけどいまこの川を流れている水や、雨粒は、まぎれもなく、あのとき東日本を襲った水であり、これから原子炉を冷やす水であり、あのとき飲んだ水であり、これから飲む水。そのことさえ忘れなければ、犬との戯れの接点においても、はしゃいではいられない人たちの心と、死者の魂を抱きしめることができる。その肉体を超越した抱擁が、さまよえる、いかにかすべき我心の、ベクトルではないだろうか。
自分と戯れるくらいなら、犬と戯れて、自分と戦う。




2013/06/20

輪廻


輪廻と転生について考えていた。輪廻のイメージは信じることができるのに、前世や来世、生まれ変わり、というリアリティで思考すると、とたんに回路がずれるというのか、しっくりこなくなる。これが自分が宗教に、心の底からは踏み込めない理由のひとつになっている。では自分の信じられる輪廻とは。ダヴィンチはこんな言葉を残している。

『手に触れた水は最後に過ぎ去ったもので、これからやってくる最初のものである。現在という時も、同じようなものである』

この言葉は「過去も未来も現在に含まれている」と言うよりは、切実さがある。実際に水は、触れて、見て、匂って、味わって、飲んで、出して。そういう身近なものだから。

【水循環】太陽エネルギーを主因として引き起こされる、地球における継続的な水の循環のこと。固相・液相・気相間で相互に状態を変化させながら、蒸発・降水・地表流・土壌への浸透などを経て、水は地球上を絶えず循環している。from wikipedia

たとえば、今まさにこの瞬間に降っているこの雨の一粒は、卑弥呼が髪を洗った水かもしれないし、これから福島の原子炉に注入される冷却水かもしれない。かもしれないではなくて、検証できないだけで、まさに、そう。検証できないものは、検証できないからこそ、在り続ける存在になりえるわけで、現在に落ちる一滴の水は、過去や未来の記憶を含む、大海を飲みこむ全体の一部なのだから、ダヴィンチの言っていることは、そういうことだと思う。


分の感覚で育っている輪廻のイメージ(像)は、この水循環がもっとも近い。人間の心も、水のようなものだと思う。死者の声を記憶しているし、未来を映し出しているし、たえず形を変えて、相を変えて、循環して、今、この瞬間に在る。太陽のエネルギーや、月の引力、地球の磁場、宇宙の磁場。人間など眼中にない世界の力によって、水も心も、絶えず影響を受け続けて、だからこそ生き生き生き生きて、死に死に死に死んで、循環している。肉体が消滅しても、魂が在るという表現は、一滴の水を考えるだけで、すんなり筋が通る。






2013/06/13

石仏

いい顔のお地蔵さんを見ていると、心ってこもるんだなあと思いますね。
















2013/06/03

法隆寺

奈良の法隆寺と興福寺に行ってきた。雨の法隆寺を期待していたのだけど、カラっと晴れて、空には龍が通りすぎたような羽衣の雲が浮いていた。期待を裏切ってくれる天空は爽快だ。

特別開扉されている南円堂、北円堂に入ってすぐに無著(西行)と目が合って、背筋になにか電気のようなものが走って、髪の毛が逆立ったような気がした。世親と無著はもう、生きている人より生気がある。ああいう当時そのままの奇跡的な空間に身を置くと、関わった人たちの魂まで感じられるのが嬉しい。法隆寺は聖徳太子が建てたのではなくて、大工さんが建てたのだから。それは太子が一番近くに感じていたと思う。

通信や交通手段のなかった飛鳥人よりも、現代人の方が、はるかに多く、古き仏たちを体験していると思う。千年先まで届くように考えて作られたのだから、それはもう、当然のことだろう。祈りの矢は、ちゃんと届いているということを、飛鳥の大工に伝えたいという、タイムマシンでも作ってみたいような、もどかしい気持ちがある。

ただただ惹かれているだけで、仏像も仏画も、詳しいわけじゃないし、神社と寺を間違えるほどの不作法がある。では古き仏たちのなにに惹かれているかと自分に尋ねてみると、手放しに昔を賛美して、現実逃避したいわけではないではなく、仏たちの、その答えのない無限の眼差しにあると思う。言葉にならないような、どうにももどかしくて矛盾したこの気持ちを、憤怒の表情で、なぐさめるような優しい眼差しで、冷たく突き放し、無言で諭すような遠い視線で、その言うに言われぬ、言葉に成り立つ前の、起源のような不安定にエネルギーの満ち満ちたこの気持ちを、代弁してくれているように感じているのだろう。自分のかわりに傷を負ったように朽ち果てていく像(イメージ)は、罪を背負って自然に還ろうとしているようにも見える。汗をかきながら、美術館に展示されている有名な作品ではなくても、無名な石仏は至るところにある。その風化に、人間が、当たり前のように自然に還っていく姿を、鏡のように重ねているのだろう。

311からカタツムリの速度で進めている仏の素描が、四冊目に入った。一冊目は色即是空、二冊目は空即是色、三冊目は色不異空、というタイトルをそれぞれにつけている。これから描きはじめる四冊目の空不異色は、救世観音からはじめようと思っている。
 


 

2013/05/27

小鳥のために

鶯の鳴き声に耳を澄ましていた。鶯がいつもと違う鳴き方をしたので、記録しようと思って、メモしていた。こん な鳴き方だった。「トケテ トケテ トケテ トケテ キッチュキッチュキッチュ トケキッチュ トケキッチュ」書き言葉にすると、ちょっと違和感があるのだけど、小鳥になったつもりで声に出して読んでみると、近いものはある。翌日、さらに違う魅力的な鳴き方をしていたので、またメモしようと思って、言葉に変換していたのだけど、実際の鶯の鳴き声との乖離があまりも激しいので、いやになってやめてしまった。小鳥の声も正確に伝えられないほど、言葉とは不自由であり、実際の経験が、いかに複雑な感情を自分のなかから呼びさましていたのかを実感した。

その不自由さは、きっと自分の科学的な態度に原因がある。小鳥の鳴き声を直訳しなくても、自分はその歌声を通して、小鳥との関係を保っているわけで、鶯がどのような鳴き方をしようとも、その響きに応じて現れる心模様こそ、小鳥と自分との約束であり、リアリティなのだ。人間が人間であることから逃れられないように、小鳥は小鳥であることから、逃れられない宿命を背負っている。その小鳥の歌に、なんとも言えない、もののあわれを感じてしまうというのは、小鳥と自分との関係性のなかで、バイオリンのように、宿命同士が見えない場所で響きあっているからだと思う。だから小鳥の声は、美しくも、どこかせつなさを帯びている。カエルだってそうで、フクロウも、猿も鹿もそうだ。その声はどこか遠くて、せつない。

ほんとうに大切な、最も美しいものはおそらく、目に見えてわかりやすい形にしたとたんに、壊れてしまうんだと思う。だけど関係性のなかであってこそ、響きあえる共鳴の鐘の音を、人は心に感じることはできる。小鳥の声は、その関係性の路に吹く風の音であり、命の表現なのだ。美しいものが伝わるときは、必ずその背後に、語るに語れない、哀しくて遠いものがある。

                             ★

薔薇のうえを歩いていた小さな蟷螂(カマキリ)がいた。蟷螂は、勇敢に自分の歩いている、その波打った大地が、こんなにも妖しい黄泉の国のような色をしていることを、知ることは一生できないことだろう。ただ薔薇と蟷螂が、なんの虚飾もなく、そこに在るだけで、人の目は遠いものを見ようとして、心に蝋燭の火を灯し、うっすらと浮かび上がったその揺らぎのなかに、かけがえのない関係を確かめようとする。わたしたちが見ていると思っている世界の、見過ごしてしまいそうなささやかな現象のなかに、ある関係性を築きあげていくことは、本質を考える力の源であり、大胆に時代を読む力や行動力に通じていると思う。ありのままの自然に対峙したとき、自分のそもそもの態度のことを、考えざるを得ないから。態度が変われば、知らなければいけないことや、取らなければいけない行動を直観するだろう。自分が見ていると思っている世界が、ほんとうは自分というフィルターを通した世界だと気づいたときに、はじめて見ている世界との乖離に気づかされる。生まれて死ぬのが寿命なのだから、それならばどうにか、その寿命の許された時間で、乖離を埋めたいというその願いが、魂の通路を掘り下げてくれるのだろう。



2013/05/19

      散歩コースにお気に入りの岩がある。おむすびのような形で、3mくらいある。


小さな石ころも大きな岩も 、よくよく観察していると、ほとんど姿は同じだと思う。10cmの石ころを100倍の大きさに拡大しても、そんなに違和感ない。川や山もそうだろう。地球起源の記憶を有している自然には、動植物では考えられないスケール感がある。徳島の土須峠を超えたあたりや、屋久島のモッチョム岳の下の巨石だらけの川を歩いてると、自分が蟻んこのようになった離人感が起きるのは、世界が相対的だから。相対的だから、容赦がない。ありのままの自然を目の当たりにすると、ちっぽけな自分が飲み込まれてしまうような、畏れを抱く。だけど次第に、自我を外して、ありのままの世界に敬意を払っていると、その自然に自分が溶けていくような、スケールに同調する兆しが訪れる。それはたぶん、相対から総体へと、観察者の視座が移動しているからではないだろうか。

相対的なスケール感のなかに、動植物は世界を感じて必死に生きている。だとしたら、きっと宇宙のどこかに漂っている石も、この(たまたま気に入ってしまった)石も、場が違うだけで、同じスケール感のなかにある。蟻が人間に気づけないように、人間が気づけない総体的な意識が、スケールそのものなのだと思う。人の目はカメラでいうところのレンズなのだとしたら、現象を相対から総体へと、焦点を切り替える機能は、太古から受け継がれてきた記憶のなかに備わっているのだろう。




津波に襲われても、海人は海を恨まない。やがてまた、海に戻る。それは人間は自然の一部であり、自然もまた、人間の一部であるという相互理解が心のどこかにあるからだと思う。わたしたちは鏡を見つめるようにして、悠久の時を超えて、大いなる自然が本当の姿を現すのを待っているのかもしれない。そのことを確かめるために、生命の寿命は定められているのかもしれない。
 
     『フェノメノン(現象)は、ヌーノメン(本質)のイメージ(象)である』P.D.ウスペンスキー




2013/05/12

色彩論


ゲーテは観測する者と観測されるものが、一体となったときに初めて、自然が本当の姿を現すと考え、自然と人間を切り離した近代科学、ニュートンのスペクトル分析を批判した。実験によって数値に置き換えられた自然は、もはや本当の姿を失っていると警鐘を鳴らしたが、当時の科学者たちの嘲笑の的になった。色彩論では、色彩とは、光と光ならざるもの対立(結婚)、光と闇の境界線にこそ、存在すると説いている。ニュートンの光学では闇とは単なる光の欠如として排除され、研究の対象になることもなかったが、ゲーテは闇を「光のない状態」と短絡的に考えるのではなくて、闇そのものの存在を重視し、色彩現象の両極を紡ぐ重要な要素として考えていた。もしもこの世界に光だけしかなかったら、または闇だけでしたら、色彩は成立しない。この両極が作用し合う「くもり」のなかでこそ、色彩は成立するとゲーテは謳った。

『色彩は単なる主観でも単なる客観でもなく、人間の眼の感覚と、自然たる光の共同作業によって生成するものである』ゲーテ

そもそもゲーテは光とはなんであるかを論じておらず、光それ自体は、一切の翳りも境界ももたない、透明な明るみであり、自ら現象することなく、すべての存在を現象せしめるものとしている。エーテルとか、暗力(ダークエネルギー)のような器として捕らえていたのだと思う。だからその器を推し量ること、科学的なとらえ方のみに傾倒して、数値に現すことができない人間の精神を置き去りにしていく光学に異論を唱え、自然との調和が崩壊していくバベルの塔を予見した。光や色彩は、自然という総体のなかでこそ存在しうるものであって、そもそも人間(精神)も自然のなかで揺れ動いているものなのだから、その箱のなかで分析したり、実験して把握したつもりでいても、それは舟のなかから窓の外も見ずに大海を知ろうとするようなもので、俯瞰の眼を通さずに数値だけですべてを把握しようとする態度は、むしろ真理からは遠ざかっていく姿だと言える。


いろんな色の絵の具を扱っていると、そのときどきに、小さく自分の心の状態に違いがあることに気づくことがある。この違いは、色による作用だと思っている。たとえば森の色を使っていると、精神が安定する。想するような、内に向かっていくような静寂と平安がある。たとえば蓮の花の色、白地に薄い紫色の陰影をつけているときに、甘い気持ちになる。色のない素描のときは、そういう具体的な気持ちにはならない。そのかわりに、なにか別の空間に触れているという認識に包まれているような気がする。別の時空へのアクセス権を得ているというのか。こうした実体験は、すべて心の内で起こっているものなので、詳細なデータに表すことはできないのだけど、ゲーテの色彩論に一致している。色彩のない陰影は、すべてを許容する透明な明るみ。色彩とはそこに浮かぶ、精神との調和であり、光と闇の境界線。光も色彩も、それを把握しようとしている人間も、すべては自然という総体(大いなる母)のなかに含まれている生命であるということを、かたときも忘れてはいけないと思う。もうこれ以上間違った方向へ文明を進化させて、二度と戻れないような滅亡を招かないように。

 『今日、われわれが原子の構造を見たとしよう。そこに、われわれは、何を見るであろうか。そこに見るのは、われわれの意識の構造そのものなのである』ハイゼンベルク
 



2013/05/08

ケシの花

アンドリューワイエスのヘルガという画集を近くに置いて、ときどき眺めている。それは奥さんにも誰にも見せ ないで描き溜めていた、ヘルガという近所に住むドイツ人女性だけを描いたシリーズで、モチーフや画材とか構図とは別のところで、ものすごく勉強になる。なるほどなあと、深く思いいり、感心するところがあり、技術は追いつけなくても、大きな励みになる。

自分は油絵は独学だけれど、技術は勝手についてきた。振り返ると、むしろ学ばないで、自分で試行錯誤する方が、発見があったように思う。ルツーセという画溶液も最近になってはじめて知った。その程度でも、ぐんぐん進む力があれば絵は描ける。では技術は、なにについてくるのだろうか。その先に進む力の正体とは。このことは言える。自分には、ある、強くて揺るぎないイメージがある。言い換えると、描く前に先に絵が見えている。だけどそれを、正確に目に見える形に落とそうとしても、いつも必ず、届かない。永遠に届かないような予感もある。それはすべてが技術のせいだけとは言えないところがある。描いている最中は、ほとんど迷いがないし、モチーフもまったく悩まない。次の絵は、すぐに取りかかるし、何枚も同時に描き進める。だけど、完成したと思ったところで、突然ものすごく不安になる。ああ、やっと港だ、長い旅だったなあ、と思った矢先に、暗礁に乗り上げる。完成したと思ったあとに、悩んでしまう。それで捨ててしまうこともあるし、その巨大な不安の波を、反対方向から打ち消すように、次の絵にとりかかったり、前の絵に執拗に手を加え続けていたりする。これはある意味、自分をごまかしていると言えると思う。砂曼荼羅と同じで、完成したら、吹き消してしまうことが、正解なのかもしれない。

ワイエスはこんな言葉を残している。

『私の感じ方は、それを絵に描いた結果より数段優れている。絵筆を取る前に、私は頭のなかにあったイメージを、絵のなかに完全に再現することは決してできない』

この言葉のいわんとすることが、ヘルガを追う、執拗な画家の眼差しによって貫かれている。すでに頭のなかにある絶対的なイメージというもの。そのイメージの強さが、現実をすり合わせるかのように、すべてを突き動かしているのではないだろうか。それはたぶん、見えない力というものの、根元が指し示している未来であり、それが、あらかじめ定められた運命のようなものかどうかは、よくわからない。

たとえば今この瞬間も、地球のどこかで、世界平和に祈りを捧げている、小さなサクランボのような女の子がいたとする。その子の祈りは、今この瞬間に、絶望的な世界の暗みに、可能性の種のような、小さな影響を与えていると思う。ものすごく小さいと思うけど、そのことを信じることができる。関係がないとは、誰にも断言できないはず。別に神秘的な話ではなくて、時空を超えるものはある。

たとえばある日、家の前で小さな一本のケシの花が咲いた。それは自分が種を蒔いたものではなくて、風に乗って、勝手に飛んできて、勝手に咲いたもの。その自由が、世界の果てで行われた、ある小さな小さな祈りと、まったく関係がないとは、誰にも証明はできないはず。証明できないものは、ないのではなくて、在る。その大いなる自由に向かって、人は見えなくても風を感じて、帆をあげる。その速さは問題ではなくて、感じ方なのだろうと思う。ゆっくり歩いた方が、感じやすいこともあるのかもしれない。だからワイエスは謙遜しているけど、その感じ方は、その作品にひじょうに近しい陰影があって、それこそが、画家が、本人以外には誰も感じることができない、地獄のような苦渋と引き替えに手に入れた、才能なのだろうと思う。

この一本のケシの花は、ヘルガなのかもしれないし、小さな祈りなのかもしれない。




2013/04/24

紫の上

狂犬病の予防接種の日だったので、指定の鬼籠野(おろの)の公民館へ行った。突然やってきた捨て犬、空(くう)は、じつは拾ってから一度だけ、外で人を噛んでいる。タバコを持った手で触ろうとしたので、反射的に足を噛んでしまった。幸い顔見知りの人だったので、謝り倒して、許してもらった。もし拾う前なら、保健所行き。人間社会にとって脅威なので、静かに殺される。邪魔なので、抹殺。まるでなかったもののように、存在を消されるということ。そんなふうに人間が、なにものかによって、なにもなかったように存在を消されたらどうだろう。自分も不注意で何度も空に噛まれている。でもそれは喉元を狙うようなものではなく、遊びが過ぎたようなもので、そんなもんは数日忘れてたら、勝手にふさがる傷。それがどうしただ。外で違う犬にそうなったとしても、同じこと。自浄を鍛えるいい機会だとは、なぜ思えないのか。

偶然出逢ってしまった動物に、自分を重ねてしまうことがある。それは投影ではなくて、通じ合えないからこそ、膨らんでいく見えない世界があり、そこに自分を落とし込むということ。先に犬が死ぬだろうと思う。そのときに、幸せだったのか?と聞いてみたい。野良犬のときより、すこしはましだったか?と聞いてみたい。もし自分が先なら、しぶとく荒っぽく生きろよ、と願う。空はたしかに、自分の奥に潜むなにかを象徴している。それは声なき声のようなもので、その響きに、じっと耳を澄まして、自分なりに咀嚼して翻訳してみると、結局、自分のなかにある甘えや依存心と戦うこと、国家の嘘や社会の歪みを直視して、戦うことに繋がっている。

空を見ていると、去年、ひかれたイタチを車道に避けたときの、まるで納得したかのように、むくっと立ち上がり、トボトボとこちらに歩いてきて、こちらを一瞥した、あのやせ細った犬のことを思い出す。そういえばあのあと、撮った覚えのない不思議な写真が二枚、iphoneに残っていた。今も保管している。それは紫色の太陽のような写真で、そういえば指定された鬼籠野(おろの)の公民館の、すぐ近くにある神光寺ののぼり藤の花は、あんな色をしていた。藤の下から見上げた空は、ガジュマルのようなインドラの綱にからまって、紫上を忍んでいた。




blog 気になる出来事(2012/09/19) http://kazuyasakaki.blogspot.jp/2012/09/blog-post_19.html


2013/04/21

インドラの綱

まるで地獄絵図のような、海の向こうの凄惨な場面をメディアを通して見たときに、この映像(写真)をずっと前にも見たような、そしてこれからも、繰り返し見るような、波のような既視感と未視感の入り交じったような気持ちになり、虚無に溺れそうになることがある。それはたぶん、自分が傍観者だからと思う。十年前の今日のニュースを、僕は覚えていない。ただ覚えているのは、自分事、自分で感じた痛みだけ。しかしふと、遠い国で起きた響きが、打ち寄せる波のように、自分でもよくわからない角度で、リアリティとして繋がることがある。それを昨日、鬼籠野(おろの)の神光寺の、紫色の、のぼり藤の下で感じた。

天気予報の雨が降る前に、朝からでかけた。のぼり藤の下からは、空はほとんど見えなかった。そのときの甘い香りを覚えている。あとになって、あれはいつか読んだ、宮沢賢治のインドラの綱の風景だとわかった。藤の甘い匂いは『冷たいまるめろの匂い』と賢治が表現した、天と地の汀から漂う芳香だった。そのことを、昨晩シリアのアレッポという石鹸で髪を洗っていたときに、ああ、そうか、と反芻した。それは人には説明できないような感覚。そのよくわからない感覚を、人間はがむしゃらに解こうとする本能がある。自分(人間)にそういうところがあるので、断言できる。それは把握しないと、不安だから。だけどよくわからない感覚を解きほぐすときに、インドラの綱まで解けて、バラバラに空が砕けてしまう予感がつきまとう。そうして蜘蛛の巣のように、何度も再生して、繰り返される。繰り返されていることに気づかずに、ただ刺激として慣れてしまうと、自分の頭で考えないようになる。考えられなくなる。それが自分にとって一番恐ろしいことで、人生の盲目。そういうときには、自分だけの感覚(リアリティ)を探す。

そういう気持ちになると、ささいなことで、タイミングの不思議(風)が起こって、示唆をくれる。読んだ人にしかわからない話だけど、宮沢賢治が、インドラの綱で登場させた、壁画の中から飛び出した三人の子供のこと。そういう感覚を、自分事として、見逃さずに捕らておきたいと思う。

『こいつはやっぱりおかしいぞ。天の空間は私の感覚のすぐ隣りに居るらしい』
宮沢賢治





2013/04/14

胡蝶花(シャガ)

あたたかかくなってくると、誘うようにたくさんの胡蝶花(シャガ)が迎えてくれる。森では一番身近な大切な白い花。いつも薪を作りにいく場所は急斜面なので、横から見ると写真のようになる。花は地面に対して垂直なのに対して、杉は地球に対して垂直。花は身軽なので重力を感じずにすむのだろう。とにかく太陽の陽射しを浴びたいわけだから、斜面は逆に好都合とも言える。シンプルで身軽な胡蝶花にとって、重力の都にすむ住人はななめに傾いて見える。どちらも素直だけど、世界の感じ方に違いがあるのだろう。
 
人間が地に足をつけた生き方を考えるとき、草花や生物は、さまざまな見え方の違いを教えてくれる。森は宇宙の広がりを教えてくれるし、石は時間を教えてくれるし、風はタイミングを教えてくれるし、水は死者の声を伝えてくれるし、炎は獣性を教えてくれる。教えられたことを、活かせるかどうかが未来に問われている。
 
 
 
 
 

2013/03/27

約束


エサを与える右手を噛まれ

買ったばかりの円盤(フリスビー)をかみ砕かれ

たのんでもいない小枝を持ってきて

はらがへってはくんくん鳴き

満腹になればいびきをかく

話かければそっぽ向き

いいから遊んでくれよと尻尾をふり

一人になればさみしがる

空(くう)よ 君はなぜここへ来たのか

捨てられたのなら恨めばいい

迷ったのなら戻ればいい

どんどん期待を裏切ってくれ

飼い慣らされるな

いつも爽快であれ 

君と僕との約束ごとにしよう






2013/03/22

家の前のしだれ桜が咲きはじめた。車を止めて写真を撮る人がチラホラ。散歩道にも名も知らぬ花がたくさんある。パックリと満開であったり、それなりに咲いていたり。色とりどり。花ってなんだろうなあ、と思う。あの色、形、匂い。なにかを表現しているのはよくわかるのだけれど『花のこと、わかった?』と聞かれると、さっぱりわからないと答えるしかない。女性的、というのはある。下手な花の絵を何枚か描いているけど、近所のおばちゃんが見に来ると、花の絵に立ち止まる。そんなとき、ああ、女性だなあ、と思う。絵によって、なにかを思い出している、というふうに思える。だけどあの色はなんだと思う。なぜそのように咲くかと思う。描いていても、よくわからない。ましてや桜のことなど。畏れおおくて、閉口してしまう。カラスウリの花のことだけは、ちょっとわかった、と言える。それは自分のなかで、密かに関係を持ってしまったから。自己矛盾かもしれないけど、関係を持ってしまったものは、うまく描けない。カラスウリの花は、途中で投げ出してしまった。

「よくわからない」というのは、僕のなかでは種(たね)のような大切な要素で、これを無理やり誰かを説得させるような力学を含んだ文脈や、科学に置き換えていると、だんだんその『なんだかわからないのだけどなあ…』と思ったときの経験から離れていく。『わからないなあ…』と思うのは、一方で強く惹かれている証拠なので、そのものとの関係(契約)を育むためには、未知で自由で個人的な領域を確保する努力が必要だと思う
。2011年3月11日のとき、その後のこと。誰しもがある強い経験(直観)をしたはずだと信じられる。その楔(くさび)は、個々の触れられない記憶のなかに突き刺さっていたもの。言い方を変えれば、種として、植えられたはず。その種が、まだ芽も見せないうちに、年月とともに、自分のなかから離れていったと感じることが、ほんの少しでもあるとしたら、その強い経験から、引き離そうとする力が、どこからか介在した、ということ。

経験とは、静かで内なる育みのなかで咲く、花のようなもの。だから、その経験から引き離そうとする力に対しては、ことごとく自分の微細な変化を注視していなければならない。答えがすでに自分のなかにあるのに、言い訳を考える時間が、経験を自分事から引き離す。そうして記憶は、確かであるはずのかけがえのないものから、ある力が加わった別の違うものへと歪められていく。当たり前だけど、自分のことは、自分からは見えない。だから対象との関係を育むこと、種から花を咲かせ果実を実らせるような内的な体験によって、『ああ、自分はいま、こんなことを感じているのだなあ…』という、誰にも歪められていない姿が、鏡によって確かめられる。だから、花を見て思い出せばいいのだと思う。見ているようで、見ていないということ。それがわかるまで、見つめ続ければいいのだ。





2013/03/15

豊かさとは

いつも使ってる市販のペーパーパレット(25枚で300円くらい)が切れてしまって、わざわざそれだけを買いに行くのが面倒で、代用に牛乳の紙パックの裏を使っていたら、これがひじょうに使いやすくて、今も何枚かストックしている。市販のものより持ちやすく、回転させやすく、正方形なので使いやすい。徳を得たようで、ちょっと気分がよくなった。なぜなら、節約でもなんでもなく、もしかしてこれは使えるんじゃないだろうかと、なんとなく試みたものが、値段をつけて大量生産されているものよりも、実際に使いやすかったから。してやったり、という気持ち。捨てられる運命に光を当てる喜びをもてたうえに、既にそこにあるものを見過ごしていて、まんまと使いにくいものを買わされていた自分を、鏡で見ることができた。

ひじょうに地味で、極私的な小さな出来事だけど、こういうささいなことに神々は宿る。お店に行くと、紙パックに注目するようになった。牛乳を見ると、白い液体の入ったパレットに見える。無関係であるはずの通路が、あるささいな発見によって、Y字路のように結びつき、関係性を持つことで、広がっていく世界がある。路傍に咲いたごく小さな青い花も、ある人にはただの青い点々にしか見えなくても、ある人にはなぐさめになり、今生の救いになりえる。もしも家族も友達も家も財産もすべて失って、たった独りで養老院を過ごす一日のなかに、春うららかに、そのけなげに咲く小さな青い花の存在に、どれだけ救われることだろう。来年も咲いておくれよ、また来年も変わらずにと、その先も、ずっとその先もと、生きる勇気が沸いてくるのではないだろうか。既にそこにあるもの、その見過ごされていく小さな姿に、結びついて広がっていく世界が、自分のなかにあるかどうか。豊かさとは、生活が楽になるかどうかではなく、たとえすべてを失っても、生きているというその身ひとつで繋がっていける、深遠な世界があることを信じることができるかどうかではないだろうか。




2013/03/13

去年から読みすすめているダヴィンチの手記。なんとか下巻半分まで辿り着いた。霞のかかった山を登っているような気持ちがある。この本とゲーテの色彩論、ソローの森の生活は、まだ読み切れていない。ネットの文章を読んだり、自分のタイミングで文を書いたりするのは、速いほうなのだけど、実物として手元にある本は、むかしから読むのがひどく遅い。理由は簡単で、すいすい読めて、ああおもしろかった、すばらしい本だったね、で終わって、もう二度と開かないような本(物体)は、そばに置いても実りがないので、買わないから。この三人の著書は特にページが進まない。この困難が、自分を著書の影へと近づけてくれる。

具体的に言うと、たとえばダヴィンチの書記、科学論、地質と化石の章。


「人間は古人によって小宇宙と呼ばれた。たしかにその名称はぴったりあてはまる、というのは、ちょうど人間が地水風火から構成されているとすれば、この大地の肉体も同様だから」

最近個人的に気になっていた五輪塔は、人間を地水火風空と刻む。ダヴィンチの文章に照らしてみると、人間から「空」が抜けてる。それはなぜだろうか。と考えることができる。著者の言う人間は、生物としての人間。一方五輪は、供養塔。生仏としての人間(魂)の塔。肉体はすでにない。だからこそ『空(くう)が一番上に必要になるんだなあ…』と、人には言えないような、孤高の納得が、関係ないはずのダヴィンチの手記から得られる。それは正解のない、溜息のような答え。だけどこのように交わされる呼吸のような想像が、著者とある通路を開いて対話すること、即ち、読書ではないだろうか。

ダヴィンチの手記、科学論の地質と化石の章は、こんな文章ではじまる。

「大地の肉体は魚類、鯨(くじら)または鯱(しゃち)の性質をもっている。なぜなら空気のかわりに、水を呼吸するから」

こんなことを彼方(かなた)から言われて、おいそれと1ページを進めてはいけない。納得できなくても、布に色が染みこむような時間を持っていれば、理解、不理解の間に、蝋燭の焔のようなある揺らぎが自分のなかに生じてくる。その揺らぎを信じて乗れば、毎日が新鮮な航海になる。その航海は、社会のあり方を見つめ、自分を見つめる旅のことでもある。著者(ダヴィンチ)の絵画の深淵は、コードのような謎解きでは絶対解けない。自分事にして、その舟で近づくしかないと思う。

人の欠点はよく見えても、自分から一番見えないのは、自分の欠点。それを気づかせてくれるものが、ほんとうの美(ダヴィンチの絵画が指し示すもの)の仕事なのかもしれない。その美に触れようとする人間のemotionが、祈りであり、救いではあるまいか。そう思う。自戒をこめて。自分の欠点について、著者は鏡を使うことを提案している。

「よく知られているように、間違いというものは、自分の仕事よりも他人の仕事の中に見つけやすいものだ。絵を描くときには、平らな鏡を使って、そこに自分の作品を映してみるとよい。すると、絵が左右逆に映し出される。そうすれば、誰かほかの画家によって描かれているように見え、じかに自分の絵を見ているときよりも、その欠点がよく見えるものだ」

これは絵についてのことを述べているのだけど、同時に精神論でもある。

鏡とは、なにか。これを自分事として引きこまないと、ダヴィンチ(美)には近づけない。彼の絵がいまもなお現代に引き継がれ、その先にも続こうとしている予感が揺るぎないのは、その作品に汚れを祓う結界(謎)がかかっているから。その謎解きは、私、や、あなた、という自立したかけがえのない個と、作品との関わりのなかでしか行われない(ただし手がかりが本人そのものの像、著者の残した文章にはあると思う)。作品を外から、科学というモノサシを当てても、誰かが書いた推論を読んでみても、ミステリーを味付けても、作品はますます屹立して、けして解けず、どんどん本質から離れていくだけ。美しさに基準や参考書は存在しない。許されているのは、自分の鏡を探すこと、人生をその鏡に映してみること。このふたつが結界を解く鍵だと思う。もはや作品とのほんとうの関係は、表面だけで終始することではなく、人生に関わってくる対話。描くこととは、目的ではなく、手段なのだと、あらためて教えてもらった。絵のことだけを言っているのではなく、おそらくすべてに当てはまること。百姓であっても、漁師であっても、浮浪者であっても。希望のなかにも、絶望のなかにも、憂鬱のなかにも。鏡とは、それぞれの歩幅で進んでいく人生のなかに、すでに見出されて、そこに在り、指針となりえるのではないだろうか。


「そんな小さな空間に、全宇宙の姿を抱えることができるなど、誰が信じるだろう」Leonardo da Vinci


 

2013/03/10

水の戯れ

ひさしぶりの雨。空と山肌が眠るように暗い色調に沈んで、ホワイトノイズを奏でる雨音が、小さな生活と住処をやわらかく綴じこめて、孤独に火を灯してくれる。
 
水の戯れはおもしろい。水を見るのが好きで、覚えている範囲で一番最初の体験は洗濯機の渦。あれを幼少のころに見ていて、あの吸い込まれるような胸のときめきが健在している。大海に溶けていくような恍惚、目眩、離人感。花とか樹とか山とか森を見ていると、見ていたはずが、見られていた、という知覚の反転体験が起きるのだけど、水はそうはならない。メッセージはあるのだけど、見られている、とは感じない。風も、雨も、雪も。瀧のように、山や谷との関係性を含めて見れば眼(瀧なら龍)を感じるのだけど、水そのものからは眼を感じない。花とか樹は、その命にはじまりと終わりがあり、骨格や皮膚もあり、生命として自立した佇まいがある。水にはそのようなとらえどころがなく、源(みなもと)としての自分を観察している気持ちになっているのだと思う。だから眼を感じずに、そのまま永遠に向かって墜ちていくような感覚になる。 主客一体、梵我一如。
 
 
 

2013/03/02

実家のすぐ近くに海があるので、帰省したときにはいつも自転車で海まで散歩に行く。その道中の河に、捨てられたボートの残骸がいくつもあって、それを見るのが昔から好きだ。苔むしていて、壊れていたり、半分くらい沈んでいたり、水中に沈みきって魚の巣窟になっていたり、先っちょだけ見えていたり。全部もう誰にも使われていない老い舟。時間を忘れて、じっと見いってしまう。なんで見入ってしまうのか。それはよくわからないのだけど、なにか目の前にあるものとは別のイメージを、舟に重ねて見ているのではないかと自分に感じる。ただの朽ち果てた舟なのだけど、あともうすこしで広大な海が広がっているという手前の、誰にも相手にされていない静かな場所で、沈むでもなく、浮くでもなく、主人を失って、捨てられて、なにかを主張するでもなく、ただただ黙って、ひっそりとたたずんでいる。
 
 
 
 

2013/02/24

ガニング・ロックス


ワイエスの『ガニング・ロックス』gunning rocksという作品。タイトルのガニング・ロックスは男の名前かなと誰しもが思うが、そうではなく、メイン州のワイエスの家の沖合にある人を寄せ付けない岩礁、島の名前。

男の名前はウォルターアンダーソン。粗野で無口で人付き合いが苦手な漁師。ワイエスはこのタイトルの習作の段階では一枚目は海辺の風景を描き、二枚目の習作は海辺に向かって背中を向けるウォルター・アンダーソンが突然登場して、彼の素描を経て、最終的には肖像画として完成させてしまう。タイトルは変えていない。なぜならワイエスにとっては、人を近づけない危険な岩礁ガニング・ロックスは、この孤高な男の横顔に相違ないから。

「素晴らしいものを見つけると私は、それをある別の思い出に直ちに結びつけてしまう。私の眼の前に存在する場面は、他の主題の広大な世界に向かって開くひとつの窓でしかないのである。絵を超越したものを私は目指しているのだ。もしそうでなかったら、すべてはあまりにも簡単だ」
 
「私の作品を身辺の風物を描いた描写主義だという人びとがいる。私はそういう人びとをその作品が描かれた場所へ案内することにしている。すると彼らは決まって失望する。彼らの想像していたような風景はどこにもないからだ」
 
アンドリュー・ワイエス

実際、一枚目の海辺の習作もガニング・ロックスではなかったそうだ。ワイエスの凄みはその匠(たくみ)にあるのだけど、その腕を使って表現しようとした世界、手を伸ばそうとしたものの遠みに僕は興味がある。ワイエスのリアリティは目の前にあるものを目の前にあるように描くことではなく、目の前にあるものを通して喚起されていく、合わせ鏡のような彼の内なる世界の影と光のこと、その写実。それは、それを感じたワイエスにしか、ほんとうはわからないはず。だけどちゃんと伝わってくるのは、彼の深い眼差しと、人知をこえた術(すべ)があるからで、換言すれば、深い眼差しによって、術(すべ)が人知を超えるからだと思う。




2013/02/23

五輪塔

昨日は丈六寺に。静かで人の気配がなく、異時空を見立てるように道の脇に並んだ、苔むした無数の墓、巨大な五輪塔がじつに美しく、石にじっーと見つめられているようで、それがなんとも心地よく、また見られているだけではなくて、声なき声を聞いているような、耳から魂が透明になっていくような、そんな厳かな気持ちになった。奥にある撮影禁止の秘仏、巨大な聖観音坐像の無の視線は圧倒的で、沈黙より静かというのか。いささかおおげさなのだけど、天(てん)のけわいを感じたような気持ちに。とくに心に残ったのは苔むした五輪塔に刻まれた「空 風 火 水 地」。なにも言えなくなるような説得力があった。

今朝、気になったので詳しく調べてみたら、日本で最初に考案された五輪塔の墓は、空海のアイディアとわかった。密教の五大体を表すもので、宇宙の根本を象徴するといわれている。一般には先祖の供養塔として用いられ、日本では平安中期からあるとのこと。知らなかった。五輪塔の型には基本があり、空は宝珠の型、風は半月の型、火は三角の型、水は円の型、地は方型。この型(form)があるからこそ、美しいのだと思う。個人的には空と風、水と地に挟まれてツンとつきだした「火」が、全体の微妙なバランスを司っているような気がした。この型がなく、てんでバラバラな形で文字だけなら、心には残らなかったと思う。型は同じでも、大小さまざま、苔のつき具合、その色や、石の朽ち方、風化の尺度がそれぞれ違っていて、そのすべての個性は、統一されている型のおかげだと思う。

自由は「自らを由(よし)とする」と書く。ここで使われる由とは、いわれ、わけ、由緒のことだと思う。自由は欲するままに行動することではなく、自分の価値観を元に行動すること、自らの拠り所を自分自身に置くこと。自分(人間)という型があるから、その元になる価値観や拠り所がある。人間という型(form)からは、人間は断じて抜け出せない。だから美を感じる心があり、美によって人間という存在を超えた視線の主(ぬし)
を感じさせてくれるのだと思う。個性とは自分からは見えない佇まい。出そうと思えば思うほど、なくなっていくもので、本人にはよくわからない生き様のことだと思う。五輪塔は、そういう存在の不確かさやあやうさ、幻性までも含めて、『今、見ているモノは、きみ自身の立ち姿であり、世界の有り様。すなわち、自分を見つめて、その拠り所を探し、ほんとうの自由を獲得せよ』と、今に伝えてくれているような気がする。




2013/02/16

踏みつけられた草

2013年に入ってからソローのウォールデン(森の生活)を読みすすめている。それと最近手に入れたアンドリューワイエスの画集。この二冊はいまの僕にとっての霊源であり、玉手箱。それで昨日、ふと気づいたことがある。それはどちらも生粋のアメリカ人ということ。僕はアメリカという国家には言いたいことはあるのだけど、もちろんアメリカ人(人間ということ)を憎んではいるわけではない。これは当たり前のこと。でもそういう当たり前でシンプルなことが、複雑怪奇な国家構造、型にはまった大人社会から見すごされているような気がする。そんなふうに忘れそうになる大切なことを、ふたつの名著は、作品そのものの力で、違う角度から教えてくれた。

この時期の針葉樹の色に、心を引かれている。秋ほど高揚もしていないし、夏ほど朗らかじゃないし、冬と春にはさまれて、目立たぬように土色をしている。あの、焦がれ色。いままでなんとなく感じていたけど、なんとなくでしかなかったものが、ああこの色のことだったのかあ、という、大きな発見があった。針葉樹の焦がれ色に気づけたのは、ワイエスの色彩のおかげ。それから森で味わう孤独に味わいを与えてくれたのは、ソローの言葉。自分ではうまく把握できなかった気持ちや、見えないものに、過去から走り続けてきて、今にバトンを渡す誠実で勇敢な作品たちは、『きみ、いいいんだよ。それを信じていいのだよ』と、光を当ててくれる。人間は人間に対して、ギフトを贈り続けるのだなあと、あらためて思う。自分をごまかしたりなぐさめたりするだけのものではなく、ほんとうにすごい作品には、そういう時空を突破する力がある。自分を超えたおおきなもの、その全体のひとつの破片のような、大切な時間がある。だからものすごい作品によって、表現に関わるひとが絶望したり、人生が変わったり、自分が壊れたりすることには、かけがえのない救いがあると思う。バラバラに砕け散るのは、表面のメッキなので、そういうものは、はやいうちに砕いておいたほうがいいのかもしれない。

ソローはまず、湖のそばに自力で小屋を建てた。自然と語らい、歩くという身体のリズム、散歩を通して思慮を深め、自給自足で生活をして、そこから社会に、国家に、虚飾のない生の言葉で、不服従の狼煙(のろし)をあげた。ソローは二年二ヶ月のあいだ、ひとりきりの時間の沼のなかに自分を沈めた。どこからか響いてくる、自然との調和に耳をすまし、それを信じて、まるで楽譜に音符を連ねるように、言葉を残した。その後、文明社会に戻り、モーツァルトのように勇敢に作品を発表した。彼のまるでひとりごとのような人生の問いかけは、密教のような広がりがある。

ワイエスは神経衰弱で虚弱体質。学校に行くことすらできず、父の画業を手伝うことによって技が磨かれ、父もまた、自分を凌駕する息子の才能を悟り、その才能を遺言を手渡すように引き出した。ワイエス自身も病気によって死を彷徨い、はやくして父を事故で失い、心さえ彷徨う。空いた穴を埋めようとしたのだと思う。その穴の深さが、愛の深さなのだろうか。



写真は1951年作『踏みつけられた草』というテンペラ画。ワイエス自身はこの作品に対して「私の自画像である」と発言している。自分自身の足元を描いているので、だからこれは自画像であるという説明的な意味あいと、踏みつけられた草こそ、自分であり、それをしらずしらずに踏みつけている存在もまた、自分であるという宇宙的な広がりを含んだ発言だと僕は思う。だからその小さな一歩が、小さな日常のひとこまが、人間そのものの存在を端的に現してしまっている。このときワイエスは肺の大手術直後の千鳥足。一度は心臓が止まっていたらしい。本人はこう続けている。「だから、これは非常に主観的で、危険で、かつ不気味な作品なのである。私の好きな作品のひとつである」

 

2013/01/13

三人の賢者

森のなかで、黒い男に出逢った。もちろん一人でここに来たはずで、まわりには誰もいないし、自分の影でもない。頭から足の先まで全身まっくろけで、見たと同時に、ふっと消えて、あとには杉の大木が、木漏れ日を浴びて立っているだけだった。男に心当たりがなかったので、山を下りてから、三人の賢者にそのときの状況を詳しく話して「あの男は誰だったのか教えてほしい」と願いでた。

一人目の賢者は、いかにも清潔で身なりもよく、ネクタイをぴりっとしめて「よしわかった」とメガネに手をそえながら、カバンからノートパソコンを取り出して、残像処理能力と錯視と幻覚のメカニズムについて詳しく教えてくれた。

二人目の賢者は、いかにも荘厳で身なりもよく、さまざまな装飾を身につけて「よしわかった」とカバンから経典のようなものを取り出して、地縛霊についてのことを話し、最後にまじないのようなものを言いながら、水のしぶきをかけられた。

三人目の賢者は、ついさっきまで山仕事をしていたような、よごれた身なりで、だけども眼の奥には光るものがあって、頭をもしゃもしゃとかきながら「そりゃあ君のことだから、僕にはわからんよ」とだけ言った。

問いかけにきちんと答えてくれたのは、三人目の賢者だけのような気がしたので、礼を言おうとしたら、彼はひじょうに聞き取りにくい独り言のような小声で、こうつけくわえた。

「だけどもその話はなんとも気になるねえ。そりゃあ、そういう摩訶不思議なものに出逢うことだってあるだろうよ。君が歩いていたのは森ではなくて、実際のところ、君自身の、底が知れない記憶の森のなかとも言えるのだからね。たとえば君がものすごく腹が立つことをされて、誰かを怒鳴るとするだろう?すると怒っている君のどこかに『ああ、俺はいま、怒っているなあ』としみじみと観察している君もいるだろう? だからきりのいいところで怒りはおさまるんだ。二人いるんだよ。君は。観察されている君と、観察する君。そいつらがなにかのひょうしであべこべになってしまうとどうだね? 君はそのとき、見えていないものを見ているという矛盾に立ちはしないかね?」

わかったようなわからないような心持ちの僕を見透かして、三人目の賢者はこう続けた。

「するってえと、出逢ったのは未来の君自身かもしれないし、そのとき君のことをたいへんに心配してくれていた人かもしれないし、大昔にその森を切り開いた人なのかもしれない。どっちにしろ、僕には君の頭のなかを開いて確かめることはできないからねえ。もうしわけないけど、こう答えるのがせいいっぱいだよ」

それだけ言うと去っていった。森で出逢ったのは、彼のような気がした。





2013/01/12

音楽の森

最近は森にいりびたっている。お隣の樋口のじいさんから好きにしていいと言われた山で、じつはかなりの急斜面。こういう手つかずの斜面を登っているとき、変な気持ちに襲われる。踏み出した足元は、いつ崩れるかわからない。おもわず握りしめた木の枝は、いつ折れるやもしれない。環境が第三者に確かめられていない以上は、全体的に未知で、混沌としていて、ちょっとおおげさな言い方だけど、不確定な未来のミニチュア。それでもなぜか、登れる。だからこそ、登れる。ここにちょっと不思議を感じる。確かめてたぐり寄せたいような、感情がある。一度軽く転落をしたことはあるのだけど、それを経験として生かしながらも、登るしかないから、登れるというのか、興奮するから、前に行けるというのか。実際に足元が崩れて滑ったり、枝が折れたりするわけだけど、とっさに身体が反応して、致命的ではない場所にすみやかに肉体の部位が動いて、その動作を、まるで身体の芯が音楽でも奏でているかのように、リズミカルに、自分の内側から響いてくる音楽として、信じて、従っているから、登れているのだと思う。言い換えれば、山との呼応を信じている、ということなのかもしれない。

さらに考えてみると、森に対応して、自分の中で自然発生した音符のようなエネルギーを、登るリズムとして成立させている指揮棒(tact)が、自分のどこかにあるはず。その指揮棒とは、そのまま人生を奏でているとも言えるのではないだろうか。なつかしい過去や、苦い経験や、苦渋の選択のなかに沈んだ地下の泉から、未来から今に向かって、たしかに聞こえてくる音楽のようなものがあって、それが生きるという旋律なのではないだろうか。答えはでないのだけど、そんなふうなことを、ぼんやりと考えていた。

                            ★


やっと、てっぺん付近の開けた場所まで、道標の補助ロープをくくり終わって、期待以上に登り降りが楽になった。開けた場所を散策していたら、人の手で築いた石段の名残りと、杉と共存している竹林があって、若竹の新緑に心がなごんだ。土砂崩れの可能性をぬぐえない急斜面じゃなかったら、ここに家を建てたいと思ったろう。このへんにハンモックをつけて、昼寝や読書をしようかと考えている。




2013/01/05

ケサランパサラン

                                                                
森のなか。いい薪になりそうな細い枯れ木を見つけてチェーンソーで切ったら、前の杉の木にぶつかって、ななめに止まってしまった。こまった。


それで体重をかけて揺らしていたら、木の先端から、パラシュートみたいな大きな綿毛がたくさん降ってきた。タンポポにそっくりだけど、大きさが五倍くらいある。 揺らすたびに、たくさんの綿毛が、ふわりんこふわりんこと、まるで競いあうように、時間を引き延ばしたようなスローモーションで落ちてくる。それはもう、絶句するような美しさで、日がな一日、その光景が心から離れなかった。

その夜、それは白い毛玉の妖怪、ケサランパサランだと教えてもらった。その呪文のような響きに胸がときめいた。由来はスペイン語の「ケセラセラ」だとか、「袈裟羅・婆裟羅」(けさら・ばさら)という梵語だとか、いろいろ諸説あるらしい。とにかく朝を待って、もう一度森のなかへでかけた。さっそくななめの木を見つけて揺らしたら、ひとつだけ綿毛が飛び出して、風に乗って消えてしまった。もう一度揺らしたら、ふたつ飛び出して、風に乗って消えてしまった。それからはもう、揺らしても出てこなくなった。風に乗るのであちこちにちらばっていたけど、なんとかケサランパサランを捕獲することができた。妖怪ではなくて、妖精だなと思った。



追記 2014.12.6

寒くなってきた。薪で暖をとると、心まであったかくなるのは、火の霊がそばにいるからだと思う。散歩したり、星空を見あげたり。火を眺めたり、土に触れたり。そういうささいなことで、一時的であれ、たいがいの悩みが吹き飛ぶのは、具体的な自然(宇宙)に潜むなにかが、人間を救済しているからだろうと思う。

すきに切っていいと言われた山で、薪を手配するんだけど、斜め45度の斜面で、道なんてまるでなくて、好き放題に荒れている場所なのだけど、この森に入った瞬間に、スイッチが入るのが自分でもわかる。脳がフル回転する準備が整って、薪を作るという制約のなかに与えられた自由に、全細胞が歓喜する。次はどこに足を出すかとか、どの蔦を握るとか、足場が崩れたときや、蔦が切れたときにどうするかとか。いろんなことを一瞬で判断しないといけないので、脳がフル回転しているのだけど、確立論的に考えていては、先に進めないような場面においても、どんどん作業が進むのは、直観が働いているからとしか思えない。

人間に相手にされていないおかげで、手つかずの森は、ギラギラとしていて、未知数で、混沌としている。破綻しているこの自由な世界と私との接点が、火の霊との契約書であり、インスピレーションという形を借りた、約束の糸なのだと思う。そんな変成意識状態の斧で、時空を切り裂いた森の裂け目から、天使のような羽毛(ケセランパサラン)が降り注いできたとしたら、それはもう、杉のてっぺんにからみついた、蔦植物かなんかの種であると同時に、現代科学では説明できない、森の精霊であるという確信に、矛盾はない。