2012/12/28

終着駅

ここ数日、気になってしかたがなかった熊野のことをネット検索で調べていたら、いつのまにやら西行法師に辿り着いてしまった。なんだか心がストンと落ち着いてしまって、もはやどこにも動こうとしない。もうこれ以上、なにも調べる気がしない。いろんな駅に途中下車したけど、どうやらここ(西行)が終着駅のような気がする。ネットサーフィンって、思考の旅だと思う。なにかを調べようとしていたのだから、問いかけがあったはず、でも今回、その問いかけそのものが揺らいでいたので、出口がなかった。それでも情報の波のなかから、なんとなく興味があるものを選んで泳いでいたら、すっぽりと、まるで等身大の穴んぼこのように落ちこむ場所があった。それが僕にとって「西行」だったのだ。ああ、ここに辿り着きたかったんだなあと、思った。どうやら旅というものは、終わってからはじまるのかもしれない。地図を捨てたあとに、ほんとうに探していたものに、巡り会えるのかもしれない。

西行のことはいわずもがな。ただひとつ、極私的に迫ってくる詩があった。このことなら、話せる。

世を捨つる人はまことに捨つるかは 捨てぬ人をぞ捨つるとはいふ
(出家した人は悟りや救いを求めており本当に世を捨てたとは言えない。出家しない人こそ自分を捨てているのだ )

僕もかつて、世捨て人であろうと強く望んだことがあった。いまもたぶん、望んでいると思う。二十代後半のころ、路上で絵を売ってその金だけで暮らし、底辺の人たちだけと触れ合い、社会から手を切ろうと思い、そのように行動した。でもそこに居続けることができなかった。今思うと当たり前だけど、世を捨てようという行為そのものの中に、強烈に世の中にしがみつこうとする自我を発見してしまったから。そのころの強烈な記憶が、この詩に結びついた。

西行の魅力は、答えのでない、その切実なさまよいのなかに落ちる、雨音のようなものだと思う。自分の気持ちを代弁してくれているとさえ思えるのは、そういうことなのだと思う。
 
 
 
ねがはくは 花のしたにて 春死なむ そのきさらぎの 望月の頃

西行
 
 

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