2012/08/26

火神 アグニ

数年前に描いた森や瀧の絵で、なにかものたりないなあという思いがここ数ヶ月、ずっとあって、その原因がなんだかよくわからなくて、もどかしかったのだけど、昨日あるきっかけで、足りないものの正体がわかった。結論から言うと、「火」。具体的には、画面全体に赤茶系の色が足りなかったのだ。赤茶系の色を塗り重ねたら、全体のバランスが整って、新しい質感が生まれた。

数日前に「瀧=不動明王」ということを聞き、瀧行は不動のお経を唱えながら行うということも知った。不動は炎のイメージが強かったので、瀧=炎という図式がうまく結びつかなくて、もどかしい思いがあった。無形、浄化というキーワードはあっても、水=火という繋がりにリアリティがなかったのだ。家の前には川があり、夜はお風呂を火で暖めるし、薪ストーブの炎を見るのも大好き。でも毎日親しくつきあっていても、繋がりがよくわからなかった。火を消すためには、水を用いる。だから対局にある要素だとばかり思っていた。無形であり、変化の速度が瀧によく似ているなあとは思うのだけど、決定的に性質が違うという先入観があった。それである日、ふと考えるのをやめた。もういいや、と、虚空にほおりなげた。すると、答えがおりてきた。きっかけはこの言葉だった。

「樹木の中に隠れ、摩擦によって生まれいでる、火神アグニ。森林に満足した彼は、母なる水に達し、水中にも潜む」

なんとも極私的で、表現し難い気持ちだったけど、一瞬でわかった。火は樹木や水のなかに、隠れている。見えないような形で、暗黒に潜んでいるということが。それでいままで森や瀧にはほとんど使わなかった火の色、茶系の暖色を重ねたら、しっくりきた。いわゆる補色関係のことで、色彩の基本なのだけど、水の色(寒色系、透明感のある)に心が傾きすぎていたのだ。 水のなかに、火が宿っている。このイメージは、思いこみに捕らわれていては育たないと思う。頭の中ではわかっていても、それは知識を組み合わせて満足しているだけで、ほんとうにわかったとは言えないと思う。人の心こそ、水のように無形なのだから。そこに潜んでいるものを捕らえるには、この世のタガを外すようなあるきっかけと突破が必要だと思う。自分の内にこもらずに、とにかく外に出てみる、と言うのか。

じつは昨日の昼頃、そういう発見があって、それで火神アグニのことがどうにもこうにも気になってパソコンで調べていたら、数時間前に見た、いっけんまったく関係のない蜘蛛による「分身の術」とよく似ていた。アグニは顔がふたつある。このことはもう、それはもう、些細で、極私的なこじつけなのだけど、僕のなかでは人生の筋道であり、重要な「点」。こういう点と点を注視して、線で結んでいると、ある方向性(ベクトル)が生まれる。奇妙な表現だけど、自分(人間)の外に、違う回路、道(タオ)があることにいやおうなく気づかされる。点と線は、どちらが先にあったのか。そういうことはよくわからないのだけど、いつだって、考えても考えても、わからなくて、まあいいやと、手放したあとに不意をついて、答えのような、きっかけがやってくる。いつもそう。不意打ちである。これはいかに普段の自分の視界にバイアス(先入観)がかかっているか、そのことを証明しているのだと思う。
 
人間というフィルターを通して、いったりきたり。表現とは目的ではなく、ちっぽけな自分を俯瞰する手段であり、全体を形成するひとつのパーツにすぎないということを、思いがけない発見を通して、日々のリアリティが教えてくれているような気がしている。

 

 

2012/08/25

分身の術

おもしろがって放置しているので、我が家のまわりは蜘蛛の巣だらけ。かれらは指で触れたり、巣に触ると、巣をつかんで躰ごと前後に激しく揺らす。分身の術を使うのだ。それは自分を大きく見せようとする威嚇行為だと推測できる。 巣に触れるものが、餌か、そうでないかを、ちゃんと認識して、それに応じて反応しているのだ。このアクションがすこしでも遅かったり間違えていれば、餌を取り逃がしたり、ぎゃくに自分が襲われたりするのだから、その反応には、一切の迷いがなく、力強い。決死であり、全力。迷いは即、生死に関わるのだから、それは当然のことだと思う。



屋久島に行ったとき、街を歩きながら、やけに蜘蛛が多いなあ、と不思議に思ったことがある。森のなかではなく、島を取り囲むように、蜘蛛がたくさん巣を張っていた。それはもちろん、森のなかではなく、周辺に餌が多くあるからなのだけど、そのような事実を凌駕して、人間である僕の目には、害虫から大切な島を守るように、結界を張っているように映った。蜘蛛は人間を認識できない。もし人間が近づいてきたなら、恐るべき脅威、死の影として捕らえ、その本能で、分身の術という、生と死のギリギリの間際で、危険を回避するための最高の対応をとる。そんなふうにかれらは、ただ新しい太陽と、新しい毎日を必死に生きている。
 
こんな小さな生き物だけど、教えていることがある。大きな声ではなく、聞き取れないような小さな声だけど。




2012/08/06

1945年8月6日午前8時15分

2012/08/03

モネの裏庭 北斎の夜

裏庭にイーゼルや画材を常備して、天気のよい日はこの場所で制作することにした。ここならほとんど屋外なので、雨が降らないかぎり完全に自然光で絵が描ける。鳥の声や虫の声、風の音や太陽の光がダイレクトに伝わってくるので、気分がよくて、とてもはかどる。天気の良い日は日中は外、夜は室内とわけて制作できればベストかな。垣根のない外からの情報を、すこしでも身にまとうことによって、カタツムリのようにゆっくりと、内なる世界で進む時間がある。そのことを大切にしたいと思う。



裏庭で制作していたとき、モネが気になってしかたがなかった。モネは屋外制作にこだわった。印象というよりも、光=色の探求のことだと思う。夜は夜で、葛飾北斎が気になってしかたがなかった。浮世絵は印象派が追求した世界観とはかけ離れているように見えるのだけど、それは表面上のことで、同じ大河を歩く、対岸者だったと思う。こちらの岸が昼なら、あちらの岸は夜と。夜は光が閉ざされるのだけど、だからこそ浮きあがる世というものがある。印象派と言われている人たちが浮世絵に惹かれた理由は、説明されなくとも、なんとなく直感でわかる。表面を追求するうちに、反転した対岸の世界、浮世の絵に魅せられた。川面の不可思議な文様を見るうちに、服を脱いで飛び込みたくなったのだと思う。 浮世絵師は水中から空を見上げて、その文様に超自然を見いだした。光のない世界で通用する理論や物語のこと。北斎の富嶽三十六景の波の傑作、あの波の先は獣の爪のように見える。実際に似たような波形を作り、その波の先を高性能カメラで撮影すると、ほんとうに獣の爪のような絵が撮れる。人間の目で追えない波形なのだから、予知だと思う。富士山と波のシンクロも、小手先の技術とはけして言い切れない。波は波でなく、変幻自在の事象。波とは獣でもあり、富士山でもある。そのような融合による超自然(ハイパーリアリティ)の創出。富嶽三十六景にはそのただならなさの匠が詰まっていて、その意味では預言書とも言えるだろう。

鎌倉の彫刻芸術の黄金期、その突破力にも同じことが言える。日本人は印象派のような自然へのアプローチよりも、自分の内にもともと眠っているものを浮き上がらせて融合させる性質のほうが特化しているのかもしれない。それができるかどうかは、土壌だと思う。江戸時代と今も、鎌倉時代と今も、まったく土壌が違う。 土壌とは、時代だけのことではなく、その心の在りようと言うのか、心処というのか。北斎は売れっ子だけど、厳しい環境にいた。借金に追われ、放蕩息子のために毎朝除魔の獅子を描き続け、肉筆画はパトロンのおかげでなんとか制作することができた。それでも絵は楽しそうで、愉快で、自由。 モネが睡蓮を描き続けたのは、三途の川に睡蓮が咲いていたから。その目はゆるやかに自由で、あたたかく、やさしい。

先人たちのぬくもりはすぐそばにある。作家が此の世にいなくても、作品に意志が残っている。そこにいたぬくもりを、すぐそばに感じることができる。その意志を継ごうとするものがいる。表現って、そういうものだと思う。


Water Lilies

1915年頃キャンバス、油絵 151.4 x 201 cm Claude Monet
   


「富士越龍」

1849年 絹本着色 一幅 署名「九十老人卍筆」 印章「百」 95.8×36.2cm