2012/07/09

さよなら手袋

今日は午後から畑の草むしりと盛り土を作った。硬くなった土をほぐし、森の土を少し持ってきて、灰と乾燥させた生ゴミをブレンド、分葱とツルムラサキとエンドウ豆の苗を植えてキャベツと赤大根の種をまいた。

なんとなく、手袋をしなかった。

草や土の触感(質感)を直に感じたいと、意識(光)できていない意識(影)の力が自分に働きかけたせいだと思う。雑草の根が固くなった土の中からメリメリっと抜けていく音、固い土を桑で叩く振動。指から腕に伝わってくる感じをできるだけ邪魔者なしにダイレクトに感じたい。だから手袋を拒否したのだ。また草をむしるとき。はっきり言って草むしりに罪悪感などこれっぽっちも感じるほど僕の神経は繊細にできていない。だけどそれでも、ふと考えることはたしかにある。メリメリメリメリと聞こえる名もなき植物たちの悲鳴。それが快感に変容する。死んでいくものに生かされている日々。それを素手で受け取るのが、せめてもの礼儀だと思っていたのかもしれない。土も直に触れた方が気持ちよい。爪の間に土が入ろうが、毛虫に指を刺されようが、ミミズを握ってしまおうが、まったくもって、それがどうしただ。

植えた苗や種は近くの市場で買ったものだ。種は日本の業者の名前だったが、苗はわからない。「もしかしたらモンサントの種かもしれない」そう思いながら、植えた。自然種を求めればいいのだけど、僕の今の心のバランスは、普通に市場で種と苗を買うことを選択していた。こういうとき、心にひっかかりが残る。残尿感と言うのか。原発以後の電気を使うときの、あの一瞬訪れる複雑な気持ちと同じだ。自分が敵であり、悪と見なして対峙している対象に、じつは自分が手を貸していないかという心配。対峙しているのが自分であり、見ているのは鏡だったという目眩にも似た焦燥感、共命鳥(ぐみょうちょう)。


このひっかかりを育てることに、人生の興味がある。いきなりひっくり返したように変わる生活や物事や言動のまやかしではなく、気がついたらひっくり返っていたという魔法に近づきたい。その力学、方程式と絡み合いたい。心の底にひっかかっている集合無意識の種が育った大地が、2001年宇宙の旅のような顕在意識の想像できうるものではなく、可視化を拒むほんとうの未来の姿なのだと思う。だから現世とは未来の鏡映しであり、原風景なのかもしれない。母親の羊水の中で見ていた夢。三面鏡の合わせ鏡が古来から畏れられるのは、無限に続く自分を畏れるからであり、それはありのままの自然への畏れと、同じ気配。

だから「さよなら手袋」。




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