2011/12/28

vanishing point(消失点)

深夜にジョギングをはじめた。寒くなってきたので体力を落とさないために始めたが、いつのまにか目的が変わっていることに気づいた。家は国道沿いだけど、山里なので夜になると車はほとんど通らない。普段なら絶対に姿を見せない用心深いタヌキを見ることもできた。道路のど真ん中を走っていると、星空に向かって走っているような覚醒が訪れる。昨晩見た星空は、今年見たなかで一番美しい空だった。

オリオン座の左上にベテルギウスという星がある。640光年離れたこの星は、来年2012年に爆発して消滅するという。なじみ深いこの形も、やがて誰も元の形を思い出せなくなるのだろう。星が消滅する瞬間に立ち会えるとは、なんという今生の幸運かと思う。感慨深いものがある反面、今生はこのままかもしれないという思いもある。正直言うと、どちらでもいい。自分を見つめるきっかけにさえなれば、それでいい。

山登りは景色と自分が同化していく感じがあるけど、ジョギングにはまったくそれがなくて、むしろ景色と自分がどんどん乖離していく。リズムが心臓の鼓動に似ているせいではないだろうか。とにかく僕はこの乖離していったときに訪れる、奇妙な反転のような覚醒を求めて走っているのだと気づいた。今夜も走れる、と思うとワクワクしてくる。星のおかげで、義務感が期待に変わっていたのだ。大空の星は自分の小ささ、人間の放漫を際だたせる。しかし同時に、まるで夜空を全部手に入れたような、大きな世界も自分の中に感じていた。人間は大きいのか、小さいのか。小栗康平監督の「眠る男」に出てくる、あの忘れられない言葉を反芻した。大気に揺らぐベテルギウスが、なぜだか泣いているように思えた。

大きな世界と小さな自分、大きな自分と小さな世界。そんな立場の入れ替えを走りながら楽しんでいると、通常の空間では実感できないはずの平行宇宙(パラレルワールド)を感じている自分に気づいた。目に見える世界や事物に重なって、もうひとつの世界が堂々と同時に進行しているような確信があった。生き生きとした世界が、実感として目の前に重なっていた。あまりにも直感的なので、このことについては、これ以上語れそうにない。しかしながら神秘体験という曖昧さではなく、自分が吹き飛んでしまうようなリアリティがあった。

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昨晩、道中のもっとも暗いゆるやかなカーブで、山影に落ちていく光を見た。その光は赤と青が重なったような光を放って消滅した。幻覚だろうけど、そのとき夜空にジュッと煙が舞いあがったように見えた。おそらく隕石が大気圏で燃え尽きたのだろうと思う。気の遠くなるほど長い旅の終点に、あの隕石はこの地球を選んでくれた。私たちが住むこの惑星が、あの隕石にとってのvanishing point(消失点)だった。

2011/12/22

神の粒子

日常的に当たり前に接している「情報」。常に観測者である人間はこの情報というものを、物質とは考えていない。もしくは考えられない。なぜなら「情報」は私たち人間の意識から生まれ、観測者である私たち人間という場でしか通行できず、反映(投影)されないから。光は人間(観測者)以外の場、人間の外に反映(投影)されているので測定できるが、「情報」は真逆、人間(観測者)に向かって反映(投影)されている。だから当然、測定しようとしたその時点で、パラドックスが起きる。しかし光だって最初はエネルギーをもった粒の集まりとは考えられず、どこかで視点の転換があったはず。色眼鏡を外し、視点さえ変えれば、本当の姿は見えてくるかもしれない。

情報は過去や未来からもやってくるし、スタートする前にゴールしていたりする。したがって光よりも速い。科学の常識を覆す光より速い「神の粒子」とは「情報」のことであり、その物質?は、探せば探すほど、遠くなる。観測しようとした時点で、場の状態が変化してしまうからである(シュレディンガーの猫)。神の粒子を捕らえる方法はただ一つ、私たち人間が場である以上、観測する側と、観測される側の立場の反転しかない。たとえば、実験のことを知らない自然な状態である人間を使って、人間以外の別の生命体に測定を依頼するしかない。こんなことができるだろうか?このへんが三次元体である人間の思考の限界で、科学の臨界点ではないかと思う。しかしこれが測定されて証明されれば、四次元の設計図ができる。すなわちプラモデルのような構造ではない、リアルな宇宙の本性を理解する手がかりになりえる。

情報には二種類ある。ひとつめは近代(科学)以後に作られたもので、もうひとつは近代(科学)以前に存在していたもの。たとえば爆発寸前であるオリオン座の左上の赤い星、ベテルギウス。この星は640光年離れているので、今現在、目にしている光は640年前のもの。すなわち室町時代の光であり、このデータは、近代以後にこの星に与えられた情報である。しかしベテルギウスには、ベテルギウスという名前をつけられる以前の、その星そのものの存在が放つエネルギー(情報)がある。その情報を開示したのは、光である。光によって情報が開示され、その開示された情報を観測して、近代(科学)によって新たな情報が与えられる。したがって、人間が観測する物質は、常にWイメージなのである。近代はイメージを二重にして都合良く世界を支配してきた。だから近代が崩れれば、その本性が見える。まずは事物の仮面をはぎ取り、近代以前の古代の情報にコミットする以外に、私たち人間の進歩はないのだろう。

情報を人間の意識という場を使って時空を自在に移動する、光より速い物質と考えると、シンクロニティは筋が通る。精神世界で言うところのアカシックレコードを設定しなくとも、そもそも情報は光より速いのだから、人間が観測できる唯一の場所が「光より速い物質が存在してはいけない世界」である以上、人間の外には、存在しない。確実にあるのに、確実に測定できない。しかしその力によって目に見える世界は作られている。これはパラドックスではなく、もちろんカテゴライズシフトしていないので精神世界でも宗教でもなく、言うなれば破壊された科学(近代)の破片に映しだされた真実なのである。

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ここ数日、自分の体験をもとに起こった共時性に関する謎の考察を深めようと、量子力学の世界を調べていた。本を読んだわけではなく、ネットで検索して誰かが書いたブログなどを読んだだけだが、とてつもなく魅力的であると同時に、量子力学の世界そのものにネクタイを締めすぎたような息苦しさを感じて、途中で投げだしてしまった。物理を理解するセンスがないのだと思う。しかし大きなヒントだけは拾い集めることだけはできたので、その破片を使って自分でパズルを組み立ててみることにした。したがって上記の考察はすでに誰かが違う形で、もっとわかりやすい言葉を使って理論立てて説明していることであることは間違いないと思う。

それでも自分で考えてみたかったのはなぜかというと、その方が「おもしろい」し、ワクワクするからである。老子のタオ(道)のように、詩的な言葉で表現するのが、もっとも真理に近いのだろうと思う。しかしそれもしたくなかった。その方法を選ぶ表現者がもっとも多いし、楽に思えたから。楽で大多数が群がるものは発見がなくて、つまらない。ややこしいことや苦手なことに、知らなかった自分を発見することの方が魅力がある。

物理が嫌いで赤点ばかり取っていた小さな脳味噌をあえて壊れかけている科学(近代)に突っ込んでみたのは、ワクワクする気配をその洞窟の奧に感じていたからだと思う。実際そこには新しい発見があった。自分の中にある自分を壊してくれる、新しい自分の価値観の種を見つけて植えること。その土壌を育てること。それはこれからの時代にとっても必要なことではないかと、自戒をこめて感じている。だからこうして、少なくてもいい、一人でもいい、誰かに、伝えたい。そしてなにより、芸術とは、哲学そのものであり、生き方だと思うから、みずからも考えざるを得ないのだ。

原発の問題をとっても、政治の問題をとっても、一筋縄ではいかないところがある。ひとりひとりが、多面体で物事を見つめたうえで、考え抜き、行動しなければいけない局面が、これからもっと増えてくると思う。そういうときに一番大切なのは、受け身ではなく、冷静に、しかも瞬時に情報を俯瞰する筋力を養い、常に「自分」で考えることだと思う。「自分」は心と躯(からだ)でできている。近代(科学)というバベルの塔は、神の怒りを買って壊されたのではなく、頭だけを使いすぎた設計図そのものに計算できない歪みが生じていた。現場では壁に亀裂が入っていたが、そのことに監督と作業員は気づきながらも、パテを埋めてごまかしながら建て続けてしまった。そのことに原因がある。これからは躯が教えてくれることに耳を傾けながらも、カテゴライズされた世界に逃げて味方を集って囲いを作らずに、小宇宙ではなく、大宇宙である自分と戦っていくことが必要なのだと思う。

大乗仏教という「神の粒子」は、時空を超えて私たちに「煩悩即菩薩」という言葉を送っている。「悩む事が即ち、悟りを開くことである」と。悩むのは、楽しい。

2011/12/17

シンクロニシティ

今に始まったことではないけれど、2010年からのシンクロニシティの頻発は、自分の中におさまりきらない気配があり、自分の中から溢れ出ようとするものがあった。これは絵を描きたいという、小さい頃から抑えられなかった衝動にとてもよく似ている。わけがわからないけど、有り余るものがあり、その力に自分が逆らえない。小学生のころ、テストの答案用意の裏に落書きしたときの快楽を思い出す。落書きについては先生によって対応が違った。許してくれそうにない担任のときには描いた後、消した。許されなくとも、描かずにはいられなかった。許してくれる担任もいたけど、おもしろがってくれる先生はいなかった。あのころ僕はもしかしたら、答案用紙の裏に絵を描きたいからこそ、やっつけ仕事で勉強していたのかもしれない。なぜこんなことを思い出したのか自分でもよくわからないが、こうなるともう、深く考えていったん外に出し、昇華するしかない。あのころのように。

二十代のときに周辺に起こったシンクロニシティのことについて考えているうちに、精神世界に溺れてしまったことがあって以来、科学の外側に対してはあまり深入りしないようにしてきた。そのころはテレパシーという感じで捕らえていたと思う。波長が合ったときだけ、情報や出来事が時空を超えて通じ合う、というような。しかし最近のシンクロニシティに関して思うことは、二十代のときとは決定的になにかが違う。

あらためて気づいたのは、シンクロは原因と結果が逆になっていたことだった。この原因と結果という言葉は、正確ではないのかもしれない。しかし今はこの言葉しか思いつかないので、使うことにする。シンクロは先に結果があってから、原因(と呼べるようなもの)が起こっている。いわゆる予知であり、予見である。誰が受信して、誰が発信したとか、そういうことはややこしくなるので考えないことにした。現象だけを見つめて、なにかしら答えを導きだしたいので。

たとえば一週間前から予定を立てて、生まれてはじめてドジョウを取りに行ったその日に、野田総理の、いわゆるドジョウ発言が飛び出した。通用されている力学なら、ドジョウというキーワードを耳にしたから(原因)、ドジョウを捕りに行ってみよう(結果)、という可能性の流れになる。また別の日にはバイクで知らない山道を走っていたら、偶然に壮大な菜の花畑に出会して感動した。すると翌日になって家人と知りあいから、近くに菜の花畑があるから行ってみなさいと連絡があった。これも通用されている因果関係、行ってみなさいと促されたから(原因)、行ってみる(結果)、いう流れに逆らっている。最近では森で赤い実を食べたあと、友人に食べたら死ぬ赤い実のことを教えられ、食中毒の危険を指摘された。その日の夜、近くの小学校でニラとスイセンを間違えた食中毒事件が起きていたことがわかった。大事には至らなかったが、全国ニュースに出てくるような扱いだった。これも事実が逆転していたなら、筋が通る話である。

今年一番印象に残っているのは、台風の翌日、家の前を流れている鮎喰川が信じられないくらい(2mくらい)増水したときのことだ。その日の鮎喰は、いつもの穏やかなエメラルドグリーンの姿とは一変して、荒れ狂い、灰色(モノトーン)の濁流となってなぎ倒した木々や葉を乗せて流れていく恐ろしくも、美しい姿に豹変していた。僕はその姿に311の洪水の情景を映していた。毎日見ている同じ川なのに、こんなにも見え方が違うものかと、近づけるぎりぎりの川辺に立ち、放心していた。そしてビショビショになって家に戻ったら、雑誌が届いていた。それは風の旅人という雑誌の空即是色という号で、告知していた発売日より少し早かった。そしてその雑誌の表紙が、たったいま見たばかりの濁流とほとんど同じ構図で同じ印象、色までそっくりの白黒写真だったのである。現物を受け取ったときの実際の現象としては、ほぼ同時と言ってもいいのだけど、表紙を決めるのは相当前のはずである。本来なら表紙にインスパイアされたから(原因)、同じような構図を無意識が求める(結果)はず。今回は台風まで予見していることによって森羅万象を巻き込んで、ダイナミックに因果関係が反転している。震災前にこの表紙を選んでいたとしたなら、311も予見していたことになる。だから記憶への残り方が普通じゃなく、忘れられないものになっている。告知している発売日より少し前(たしか一日前)でなければ、この絶妙なタイミングは生まれなかった。この細部にもまた、ただならなさを感じてしまう。

小さなものを含めると、まだまだ書ききれないことが起きている。このような度重なるシンクロが教えてくれたことは、因果関係の反転だった。シンクロには、通用されている感覚ではありえないと思える力学が介在しているということ。これは大げさな飛躍ではなく、アインシュタインが撤回した宇宙項Λの存在証明、反重力への兆しそのものではないかと直観している。勉強不足なので断言はしない。でも止まっている電車が動いているように見えたり、熱中している時間は短く感じたり、誰しもが頭と躯(からだ)で体験して納得できる出来事だからこそ、科学は説得力を帯びて世に浸透する。常識を覆すような数式はにわかには信じがたく、検証されてからあとから、あれはそういうことだったのかとハッとするものであり、そういう意味の直観を感じているのだ。

さらに311以後の世の中の動きと照らし合わせてみる。すると大きな発見があった。結果から始めようとする因果関係の逆転行為とは、今まさに少数の人が試みている、自分を捨てて、原因(心)を未来に送ろうとする行動と合致しているのだ。結果のために、という行動原則によって、近代というバベルの塔ができたのなら、原因(心)のために、結果から始まる、という、見返りを求めない、脳の新しい部位を使った行動原則とは、精神世界にだけ通用されている言葉だけが一人歩きしたものではなく、リアルな、本物の、社会の仕組みを換えてしまうパラダイムシフトに成り得るんじゃないだろうか。そんな大いなる可能性を、シンクロニシティ(共時性)は与えてくれた。

この気づきから導かれた情報(仮説)は、僕自身の小さな頭の中におさまるものではない。だからその負荷に耐えきれなくなり、こんなふうに言葉にして、ささやかながら第三者が見れる状態にしている。そういう意味で、僕自身のなにか特殊な能力による現象の考察ではまったくなく、波長が合うもの同士だけが密に交わせる特別なものでもなく、もちろんオカルトでもなんでもない。誰の前にでも当たり前に起こっている現象なのだけど、近代という壁が邪魔をして、その兆しを受け入れることができていないだけなのだ。

さらにマクロな視点でも共時性というものを全体的に俯瞰してみる。そこでもやはり因果関係の逆転がある。一連の共時性が、抜き打ちテストのようなもの。そう考えると(反転した)筋も通る。共時性から導かれる答えが、はじめからずっと目の前にあり(結果、または解答)、その答えを導くまでの数式を、自分ではない誰か(先生のような存在?)から求められていると感じていたからこそ、自分のキャパシティーを超える現象について考えざるを得なくなり、回答者として自分が、たった今、手を挙げてしまった(原因、または問題提起)。もちろん答えは間違っているかもしれないが、合っているかどうかは問題ではなく、過程を考察することにテストの意味がある。そんなふうに考えると、頭がすっきりする。言い換えるなら、もやもやしていたものが昇華され、外に出て行くのである。

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文章を書くときに、自分が書いている気があまりしないことがある。書かされているというほど受動的ではないけど、能動的にもかかわらず、自分が書いたものに発見が多いという矛盾した状態にある。絵を描くことにも同じことが言える。理解不能なモチーフだけど、大きな確信があり、その確信を文字通り、確かなものにして、信じたいからからこそ、時間をかけて描いているという気がする。それは導かれているような、わけのわからない呼び声を信じて、応じているということでもあり、わけがわからないものなのに、人生を賭けて、信じているという矛盾した状態でもある。シンクロも通用感覚では理解不能かもしれない。しかし理解不能だからこそ、共時性の海に満たされる。その海に潜って、確信したいものがある。海底には、静かに眠る財宝があるかもしれないし、見たことのない新種の生物がいるのかもしれないし、もしかしたら、パラレルワールドが広がっている地下帝国の入り口があるのかもしれない。海面にはすでに飛び込んでいる人たちが見える。なぜか呼吸をしているので、人間ではなく、私たちそのものの影ではないかと疑っている。それでも飛び込むのは怖いという人が大勢いる。しかし後ろ手に山火事による野火が迫り、もはや逃げ道がない悟ったとしたら、誰しもその海に飛ぶこむしかないのだ。

風の旅人 43号 空即是色
http://www.kazetabi.com/bn/43.html

2011/12/06

即身仏

ディスカバリーチャンネルの「即身仏の科学」という番組を見た。衝撃的だった。想像を絶する苦行を通し​て、生きながらにして、どのように死んでいくか。その様子を科学的な視点から追っていた。最終段階では湯殿山から涌​き出る温泉(ヒ素)を飲み、躯を内側から殺菌していくという徹底ぶり。この科学的な即身仏マニュアルを伝え​たのが、空海だった。

五穀断ち、十穀断ちといって水分のある穀物を避け、木の実や樹皮だけを食し、山を走って、体力を整えながら瞑想に入る。計十数年も準備をかけて躯を殺していくというのは、あらゆる求道的な狂気のなかでも、究極の姿ではない​だろうか。過酷な登山や、極限に挑むレーサーには、覚悟はあっても、あきらかに「死ぬとわかっている」という猛進​とは似ていて、違うような気がする。こういう極限状態の暮らしの中では、俗人とはまったく異なる脳の回路を使うのだろ​う。ここに強い興味が沸いてきた。臨死体験のようなオカルト的な興味ではなく、その向かい方というか、姿勢の中に訪れる感覚はいったいどんなものなのだろうかと。
 
死に近づいていく僧は、なにを思い、なに感じているのだろうか。たとえば木の実を口にしたとき、一般に言​う、「食べる」とは違う感覚であると取材を受けた僧は答えていた。朝陽が昇るのを見て、いったいなにを​思うのか。うまく想像ができない。これは生に執着しているからなのか。しかし、執着なくして、ど​うやって生きていくのか。おそらく小鳥が木の実を食べる感覚に、僧の精神状態は近いのだろうという​仮説が浮かぶ。小鳥には自分がない。目の前にある事物に対して、快、不快という二者択一の選択だけで生​きている(と僕は思う)。だから自分がある人間は、自分がない小鳥を見て、心が安らぐ。実際に僧を見たら、​そのように心が安らぐのだろう。

番組を見たあと、もの足りなかった部分を自分で調べた。そして即身仏と即身成仏があることも知った。空海​は一方で即身成仏義(生きながら仏となる)を確立し、一方で即身仏(仏になるために死ぬ)のマニュアルを密​かに伝えている。言葉で伝えられることと、伝えられないことを知っていて、お互いがそれを補う関係を作っ​ている。ここに密教のすごみがあり、空海のただならなさを感じてしまう。

今朝、薪を取りに入った森の中で、上記のことを反芻し、僧の感覚を探していた。小鳥が激しく鳴いていた。彼らと同じように​、赤い木の実を口にしたが、苦くて、とても飲み込めるものではなかった。「違う感覚」とは、いったいどこからやっ​て来るのだろうか。
 
 
 
 

2011/12/02

故郷

福島の川内村で自分の力で森を開拓して、その手で小屋を造り、沢の水を引き、田畑を耕し、太陽電池と風車で電力自給していた一家にお会いすることができた。今はキャンピングカーに太陽光発電機を積み、家バスという移動式住居によって、日本全国あらゆる場所で自然エネルギーの講座や、どんぐり食のワークショップを開いているという逞しい生き方をしている。

彼らは避難という、ある側面から見ると-(マイナス)に見える要素を、見事に+(プラス)に変換して、行動している。起こってしまったことをくよくよ悩んでもしかたない。しかしヤケになるのではなく、生きてるだけで丸儲けというこの状況を、まるごと楽しんでしまえばいいのだという覚悟の中に、満ち足りた揺るぎないものを僕は受け取った。

たとえばある小さな国の、当たり前の生活を営む人々を映した写真の中にも、なぜこのような質素なつつましい生活の中で、こんなにも幸せそうな、満ち足りた表情ができるのだろうかと、その瞳が心から離れないことがある。その瞳には私たち(僕が)が失ってしまいかけている、触ると砕けて粉々になってしまいそうな、繊細なものが映っている。そのような心から離れない繊細で豊かな要素は、実はどんなところにも必ずちらばっている。見過ごされそうな小さな場面で。それをすくい取れるかどうか、だと思う。

もちろん満ち足りた表情のその根底には、計り知れない深い哀しみの土壌がある。しかし人間にはその哀しみを、エネルギーに転換する装置(力学)がもともと備わっていて、そのエネルギーは家族や友人、先人や失った命の存在によってさらに増幅して強固なものになるのではないだろうか。僕が彼らに実際にお会いして感じたのは、この-を+に変えてしまう、人間の中に備わっている自主エネルギーそのものだった。換言するなら、人間そのものが自然エネルギーであり、即ち、人間とは自然の一部であるという真実を体現しているのである。

ここ数日、もし自分が故郷を追われた立場だったらと考えていた。もし一人だったら、戻っただろう。しかし家族が一緒なら、新天地を探しただろう。このふたつの答えの狭間に、僕は故郷とはなにか、という答えを見つけたような気がした。故郷とは、人と人との断つことのできないつながり、離れがたい結びつき、それは家族であり、友人であり、先人であり、失われた命。そういう目に見えない絆、責任感の中に、目に見えない故郷があるのではないだろうか。故郷は目に見えるものと、目に見えないものと、ふたつある。どちらかが欠ければ、どちらかを強烈に求めてしまう。戻れないからこそ、望郷の想いが募るように。海外にいるからこそ、日本を憂うように。そういう人たちと、共有して、分かち合いたいものが、たしかに僕の中にも在る。

ソーラーのらや http://solar-noraya.com/