2011/09/18

雨剣


豪雨の剣山、頂上付近は、立っているのがやっとの暴風雨だった。誰一人登山者ともすれ違わなかった。そして刀掛の松の周辺、風雨に揺れる一本の松の木を見ていたら、自分がどこかに消えてしまったように思えた。wild side(極私的であり、幅広い意味での、荒野)に入ったとき、ときどきこういう瞬間が訪れて、それを自分では啓示と受け止めていたのだけど、今回はいつもとは違い、なにか手がかりのようなものを感じていたので、下山したあと、つい先ほどの体験を追いながら考えていた。そしてぼんやりとだが、答えが出た。「自分が消える」とは即ち「ひとつの概念が消えた」せいではないだろうかと。四次元時空にいる人間は、三次元しか知覚できない(蟻が人間を把握できないように)。だから把握しやすいひとつの概念の物差しを当てて座標を作り、ここにいる場所を点として、世界(時空)を「私たちにとって、都合のいいように」把握しようとする態度を取っているのではないか。

だとすると、私たちは運命として逃れられない色眼鏡をかけていることになる。しかし、おそらく世界とは、普段、スクリーンに投影された映像を見て、それを現実だと思いこんでいるだけの幻影であり、私たちが認識しているものとは、もっと別の形をしているのだろうと思う。世界を本当に知りたければ、スクリーンの上を調べても、けっしてなにも得られないのだ。投影されたものではなく、その光源を調べるしかない。その光源とは、どこにあるのか。それは自分の中にあるのだろうと僕は思う。概念とは、我々の意識が創り出した物差しなのだから。

世界は私たちにとって都合のいいようには、存在していない。


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