2011/09/18

雨剣


豪雨の剣山、頂上付近は、立っているのがやっとの暴風雨だった。誰一人登山者ともすれ違わなかった。そして刀掛の松の周辺、風雨に揺れる一本の松の木を見ていたら、自分がどこかに消えてしまったように思えた。wild side(極私的であり、幅広い意味での、荒野)に入ったとき、ときどきこういう瞬間が訪れて、それを自分では啓示と受け止めていたのだけど、今回はいつもとは違い、なにか手がかりのようなものを感じていたので、下山したあと、つい先ほどの体験を追いながら考えていた。そしてぼんやりとだが、答えが出た。「自分が消える」とは即ち「ひとつの概念が消えた」せいではないだろうかと。四次元時空にいる人間は、三次元しか知覚できない(蟻が人間を把握できないように)。だから把握しやすいひとつの概念の物差しを当てて座標を作り、ここにいる場所を点として、世界(時空)を「私たちにとって、都合のいいように」把握しようとする態度を取っているのではないか。

だとすると、私たちは運命として逃れられない色眼鏡をかけていることになる。しかし、おそらく世界とは、普段、スクリーンに投影された映像を見て、それを現実だと思いこんでいるだけの幻影であり、私たちが認識しているものとは、もっと別の形をしているのだろうと思う。世界を本当に知りたければ、スクリーンの上を調べても、けっしてなにも得られないのだ。投影されたものではなく、その光源を調べるしかない。その光源とは、どこにあるのか。それは自分の中にあるのだろうと僕は思う。概念とは、我々の意識が創り出した物差しなのだから。

世界は私たちにとって都合のいいようには、存在していない。


2011/09/12

ロスコの部屋

ロンドンのテイトモダンで見た、マーク・ロスコの作品が忘れられない。お目当ては彼ではなかった。もちろん彼の名前は知っていたのだけど、美術の教科書で見た、その壁の染みのような暗い作品にはまったく興味が持てなかった。しかし僕は翌日も、また次の日も、テイトモダンに吸い寄せられ、ロスコルームと呼ばれる、彼の作品だけを飾った部屋の中心にいた。

人と同様、作品にも出逢い方と言うものがある。そのとき僕は初めての海外での滞在ということもあり、情熱よりも不安の方が大きかった。知りあいもいない。英語もカタコトだし、財布の中身も心許ない。滞在中、僕はほとんどの時間をギャラリーや美術館を見て回ることに使った。絵画なら、わかるという自負があった。共通の言語を求めることによって、少しでも不安を埋めようとしていたのだ。結果、自分を試すつもりが、誤魔化してばかりいた。滞在中、いけない土地に迷ってしまい、キッズたちに襲われて、命がけで逃げ出したこともあった。誰も助けてはくれなかった。トイレで破れた上着を捨て、汚れた服を洗った。その日もロスコの部屋に飛び込んだ。するとなにもかも忘れることができた。なにも言わないはずの画布がなにかを僕に語り、慰めてくれているように思えた。ロスコの部屋に入ったとき、僕はわかる、とか、わからない、とかの、認識を超えたものを感じていた。躯が先に反応して、頭がその反応の所以をまったく理解していなかった。それでもよかった。一人じゃないと思えることが救いだった。一見なんでもない画布のシミに、心が響き合い、共鳴していた。そしてロスコの部屋を出たあと、親友を失ったような、ひどく寂しい気持ちになった。そして帰り道、この作者は、この作品を創ったとき、さぞかし孤独だったんだろうなと思った。

日本に戻り、彼の事を調べた。あのとき見た作品群が、シーグラム・ビル内のレストラン「フォー・シーズンズ」に依頼されたものの、スノッブなレストランの雰囲気に幻滅し、作品がただただ金持ちの食事のアテにされて消費されるのを嫌い、契約を破棄したために宙づりになったという、いわく付きのシリーズだったことを知った。さらにその作品群の寄贈先をテイトギャラリー(現テイトモダン)に決めた直後、彼は自殺している。

彼の作品の本性は、印刷では「まったく伝わらない」と断言してもいいと、僕は思う。今、日本にいて彼の画集を見かけても、買うことはないだろうし、展覧会があったとしても、あのときを超える呼応は期待できない。それならば、思い出を抱えて、熟成して自分の糧にしようと思う。好きな画家は?影響を受けたアーティストは?と聞かれても、彼の名前を挙げることはないだろう。でも忘れられない、きっといつまでも。そういう出逢い方だった。

自分が描いているのは、ロスコの真逆、具象絵画だ。昨年、剣山シリーズで具象と抽象の境のようなものを試してみたが、「自分の中で」、失敗した。でも自ら決めてしまっていた展覧会を断る勇気もなく、自分を誤魔化して発表した。すると思いがけず好評だった。緻密に描ききらないという手法を取ったので、作品の価格を低く設定したせいか、小品が何点か売れてしまうという反作用も起こってしまった。これではこの先、道を誤る可能性がある、と思った。作品が評価されるのは嬉しいけど、自分に嘘はつけないと思った。自ら望むことがよくわからなくなって、得体のしれないものに飲み込まれてしまうような気がした。だから僕は一旦自分をリセットした。それにしてもなぜ当時、具象と抽象の境に疑問符を置いたのか、今となって思い返してみると、それはロスコの部屋で起こったことを、なんとか自分で理解しようと無意識で足掻いた傷痕だったように思う。結果、表層だけをこねくり回すという浅い実践だけで終わってしまったので、後悔が生じてしまったのだ。

あのとき異国で感じた、あの感応の正体。それは使い古されている言葉なのだけど、確かに「祈り」のようなものだったと思う。神仏に向かうときのような、手を合わせたときの神妙な気持ち。怖いと想う人の目には、ものすごく怖く映り、優しいと想う人の目にはには、ものすごく優しく映る。そして心から求めるものなら、ちゃんとそこに映る。そういう神道で言うところの「鏡」、仏教で言うところの密教像のような多面性が備わっていたように思う。日本に戻ってから、具象と抽象について考えてはみたが、納得のいく答えはでなかった。それどころか、何年も経っているというのに、いまだ、あの時の躯の反応に、頭がついてきていないままのような気がしている。今はもう吹っ切れていて、抽象に触れることはないが、それでもときどき、ふとあのときのことを思い出すことがある。そんなときはこんなふうに思う。今、自分はまったく別の方法で、自分にとって最良の方法で、あのときの一枚の画布のシミを、模写(写実)しているのだろうと。

追記

ロスコ・ルーム(シーグラム壁画)は千葉にある川村記念美術館に常設されています。
http://kawamura-museum.dic.co.jp/collection/mark_rothko.html

2011/09/07

魂の死

2011/09/01

眠る男

小栗康平監督作品「眠る男」を見た。

冒頭から、フレーミングが気になってしかたがなかった。なぜここにこれが映っているのか。まったく関係ないような電線や家財道具、看板。画面の奧で(撮影していることに気づいているかどうかもわからないように)ごく当たり前に人や車やバスが横切る。心象を伝えるような俳優のアップショットもなく、気がかりな言葉を残して唐突に絵が変わったりする。なにを書いているかよく見えない背景の看板、チラッとだけ見えている積み重なった洗濯機や、どこにでもありそうな橋や、見覚えのある山、空、雲、鳥。あらゆるものが偶然のようにフレーミングされている。多くの監督が排除しようとする事象を、あえて作為的に取り込んで、混沌とした大きな渦を、化学反応のように、ゆっくりと発生させているというのか、例えばなにもない青空に、魔法をかけて雲を発生させている実験を見ているような印象があった。

終始ただならない気配のようなものを感じていた。その気配とは別に、見覚えのある、どこか懐かしいような日本の風景が同時進行しているで、極個人的な思い出を取り戻しているしているような感慨もつきまとう。ふとゴチャゴチャしているなあ、と思っていたものが、ピタッと等価値になる瞬間がある。そこで人間とは世界の主役ではなく、ある一部分を形成しているだけ存在ということを気づかされる。でもちゃんと自然の一部として存在している。共存している。吹き飛ぶような芥子粒のひとつひとつに、物語と矜持がある。眠る男を枢軸にして、表と裏、あの世とこの世を逆転にさせた混乱が、さらにその物語を際だたせる。それを見せられて、引き裂かれそうな自分がいる。そんな自分を見透かしたように、男は、物語の終盤、ブロッケン現象に映る影に向かって「人間って、大きいんかい?小さいんかい?」と尋ねる。観ている自分も、あのときまさに、そう尋ねたかった。代弁してくれたような爽快感があった。ほっとするのと同時に、自分自身に問いかけられているという気持ちにもなる。虹の中にいるのは、自分の影だったことに気づかされる。問うてみたかったのも自分だが、問いかけられたのも、自分だったという矛盾が異界への扉を開き、世界が二重とも三重とも呼べるような存在であることの気づきによって、視界が開けたような快感に満たされる。

フレームの中に在るものすべてが、緻密に計算され、周到に準備されたもの、または無意識が呼び寄せた、本人すら気づいていない(のではないかと僕が思うだけ)、奇跡的な存在の集合体であることにはっきりと気づかされたのは、能のシーンだった。これはもう、僕には語れない。観て頂くしかない。人智を超えた恐るべき力の介在が、はっきりとここに見える。もちろんここだけではなく、恐るべき力は、物語のそこかしこに散りばめられている。「恐るべき力」の源泉のようにも見える、自然の摂理に逆らった「魔」のエネルギーを喚起させるような、ゆっくりと半時計回りに動く巨大な水車。唐突な鳥の声、台詞。女が森で対面する眠る男。鹿。吸い込まれる煙突の煙、蝿、竜巻。当たり前のように通るバス、車、人、電車。当たり前のような商店街、自転車置き場、民家。すべてに満遍なく愛情が注がれ、見逃してしまいそうな「当たり前」や「意味不明」や「どこにでもある」が説得力を放ち、そこから渦のようにして物語が紡がれる。だからこそ鑑賞する側の無意識に溜まった要素を浮かびあがらせたうえで、どこに行ってしまうかわからないような、風に舞う落ち葉のような気まぐれを追いかけているようなテンポが我(が)を誘い、そこはかとなく完結したうえで、そこはかとなく無限に向かって解き放たれ、極私的な物語となりえる。

僕はこの映画を見て、希望(希なる望み)とも言い換えることができるような、気高い負荷を背負うことができた。この負荷は、とても自分を逞しくしてくれる力だ。自分を根本から否定し、打ち砕き、とことんまで絶望させてくれたうえで、性根もろとも蘇らせてくれる可能性と勇気だ。その力は啓示となって、この先、大切な場面で僕に直接語りかけてくれるのかもしれない。今すぐではなく、忘れたころに。もしかしたら鹿の口を借りてかもしれない。もしかしたら雨音を借りてかもしれない。もしかしたら鈴虫の音を借りてかもしれない。「君が変わらずして、なんで世界が変わるはずあるんだい?」「おい、どうかしてないか?ちゃんと自分を信じろ」「大勢に迎合する必要がどこにある?」「よく考えろ。それが大事なことか?」「今ここに、なんで君は生きてる?なぜ君は死ななかった?」そしてグルグル回って、この問いに帰結することだろう。「人間って、大きいんかい?小さいんかい?」

それにしても心を揺さぶる作品は、いつだって大勢とか大多数とかの影に隠れて、まるで踏み絵のように、そこに至る過程に階段を仕掛けてあり、辿り着くその過程、そのものまでもが作品の中に組み込まれているような不思議がある。だからこそ恩寵であり、類い希なんだろうなあと思う。


風の旅人 編集だより 「人間は大きいのか、小さいのか」
http://kazetabi.weblogs.jp/blog/2008/04/post-2dcf.html