2011/06/15

螢の火(ほのか)


螢が見えるとの噂を聞き、隣のおじいさんに場所を尋ねたところ、目の前の川で見えることがわかった。以来毎晩、螢の火(ほのか)を見ている。光が弱すぎて写真には映らないのだけど、この月下の暗闇には40~50の螢が蠢き合い、点滅している。螢を見ていると、いつも過去にタイムスリップしたような気持ちになる。夜光虫とわかっているのに、森の精霊が水遊びしているように心が見てしまい、先祖が戻ってきてくれたような気持ちにもなって、祈りを捧げているときのような粛々とした心の状態になってしまう。おそらくは研ぎ澄まされた五感と対象との間に起こった摩擦(または科学反応)のようなものによって、既に知っている情報の壁(意識)を飛び越えて、螢なんて知らなかった時代に心が勝手に歩み寄り、知覚の扉が開いたり閉まったりして、「あちらの世界」と「こちらの世界」を自由に行き来できるような、タガが外れた、時空の半開きの状態になっているのだと思う。

僕たちはいろんなことを知っている。しかし体験はときに「知っている」ことを軽く飛び越えて「知らない」世界に連れて行ってくれることがある。五感による外界への接触は、思いも寄らないタイミングで第六感というエネルギーの火花(スパーク)を生みだし、見えるものの中に、見えないものを内在させ、過去や未来へと続いているような、永遠という虚構を、それぞれの人たちの、それぞれの尺度で感じさせてくれる。こんなにおもしろいことは、他にはないと思う。

                              ★

生まれて初めて描いた油絵は、「螢の火(ほのか)」というタイトルだった。この絵は写実ではなく「創作」である。本当は螢などいもしないのに、「なんとなく」描いてしまった。改めてこの絵を見ていると、今、螢の火が外に広がっているので、過去と現在が繋がったような気がしてくる。螢の火が、太古の記憶のように見えたり、森の精霊のように思えたり、突然失なわれた多くの命が、生き残った私たちに向けて放った遺言のように感じたりするのは、そこに在るはずのないものを、私たちの脳が生み出している証なのだと思う。その生み出されるものには、どこか統一したイメージがある。みな考えることがバラバラなら、イメージもバラバラであるはずなのに。

もしも世界が決定論的自然観(神はサイコロを振らない)で支配されているならば、僕たちは今、まだ訪れていないはずの未来を、一分一秒毎に忠実に写実していることになる。未来が決まっているならば、なにかを生み出すという行為は、ただただ思い出すことと同じ意味なのかもしれない。こうやってわざわざ会いに来てくれて、個々に燻っている第六感の火を灯し、なんの見返りも求めずに道筋を思い出させてくれている魂の火に対して、唯一、残された者ができることは、五感をフルに生かして、丁重に彼らを現在に迎え入れ、鎮魂の歌を唄うことだけなのかもしれない。

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