2024/02/24

ワタリガラスと小さな狸

ある日の散歩道、お不動さんのそばにいつか見たコダヌキがいた。


ひどい皮膚病で動けない状態。既に死の気配を察した数羽のカラスが上空を飛んでいた。


まだ生きてるのでとりあえずシーツをかけたら、ちょっと起き上がってコクリと頷き、横になって動かなくなったので山に帰した。

最期の挨拶をしてくれたのか、抱き上げたとき、「キュン」と一言鳴いたのがとても印象的だった。



コダヌキと出会う数日前、絵の中にワタリガラスが出現した。この世界に光をもたらした恩人であり、人間を呼び出したのも彼だという。

前日には、剣山の頂上でワタリガラスが極楽鳥に化身する絵も描いていた。

うちの里山はカラスの姿を滅多に見ない。だから上空に舞うカラスの群れを見て、とても珍しく、また絵の世界と現実が曖昧になったような不思議を感じていた。

翌日の朝には白い布だけが残り、コダヌキはもういなかった。抱き上げて「キュン」と鳴いたそのとき、命は極楽鳥に抱かれていたのだろうと思う。



その夜、極楽鳥たちが楽しそうにガジュマルの森を舞う絵を描いた。なにか新しい神話がはじまったような気がした。

アラスカのような広大な森ではないけど、この小さな里山にも宇宙がある。創造と直感はそこから流れてきて神話を描く。

神話=魂のコード。

魂は永遠を求めて宇宙を輪舞している。



 

2023/12/17

虫の知らせ

 

強い西陽による映色。これまでで一番綺麗に黄金色が出たなぁと内心喜んでいたら、金色の蝶が舞い降りてきた。

まるで確かめるように龍の上を歩いていく蝶。この作品は失敗が続いていたので、祝福に来てくれたんだね、ありがとう。


それにしても不思議。完全に映色(この色が出せなくて苦心していた)と一致してる。

前回のbutterfly effectは祝詞中なので撮影出来なかったけど、今回はスマホを撮りに行く間も待っていてくれたし、近づいてもまったく逃げない。絵を踏まないように気を遣って歩いているようにも見える。

動画

わざと自分を撮らせて、他の人にもなにかを伝えようとしてるような気配。そう、蝶がなにか表現(演舞)をしているかのように思えた。

虫の知らせは迷信ではない。人と自然は神秘の力で繋がっていて、全ての色彩や形象(イマージュ)は自然の中から現れる。

『認識の主体と客体は固定したものではなく、相互に交換できるものである。これは認識の対象が、人であっても自然であっても同じである』

『自然との触れ合いをとおして人間が自己理解に至るばかりでない。自然もまた、人間によって自己を理解するのである』

「ノヴァーリスと神秘主義思想」より



2023/09/23

彼方からの手紙


水の戯れを描いたのこの二枚、左は仕上げるのに三か月以上かかってて、右は三日くらいで仕上げてる。左はずっと未完成のまま壁にかけて、別の絵を描いていた。つまりなにか未来から来るのがわかっていて、ずっと視界に入る位置に置いて、ポテンシャル(潜在力)が充満するのを待っていた。右はその流れの勢いで描いているから、自分でも不思議なほど仕上りも早い。

『神鹿が精霊の泉でなにかを見ている』

そのテーマだけ彼方(あちら)から送られてきて、まだビジョンは此方(こちら)には届いていない。そういう状態が『降りてくるのを待っている』という段階。シモーヌ・ヴェイユの「見つめることと待つこと、それが美しいものにふさわしい態度である」という言葉は、このこと。

ただ待つことだけでは取りこぼすので、こちらからもいつも描いて、いつでも受け取る準備をして見つめていなければならない。この向こうから来るのを待ちながら、こちらからも受け取る準備を整えて、ポテンシャルを静かに高めている状態を一言でいうなら、祈り。その祈りの対象を神と呼ぶ。

画家でもないヴェイユがこのことをわかっていたのは、それが全てのことに当てはまる真実だから。天才とは、この待ち時間が短い人のこと。しかし神の啓示はよいことばかりではなく、雷のような破壊的な側面もある。「絵を描く事は、自分の狂気への避雷針だ」とゴッホが語るように、神の待ち時間が短くなると、その人生も破綻しやすい。しかし雷を受けた大樹が龍の宿り木になるように、その作品は多くの人の魂の宿り木となる。

ポテンシャルとはまだはっきりとは現れていない可能性や潜在力のこと。ぼんやりとして、言葉にすると壊れそうになるが、それが漲ってくると、心身ともに元気になって、世界がキラキラと光輝いて見える。このポテンシャルは、自然の中に精霊の力として潜んでいる。だから古来から人々は鎮守の森に神の社を設定してきたし、花や草木の姿形にも、はっきりとそれは現れている。

彼方からの手紙を受け取ったものは、それに答えずにはいられなくなる。ポテンシャル(神)が充満するのを待ちながら、毎日のように祈り続けている。

彼らの時間は過去から未来ではなく、未来から今に向かって流れている。誰も気にしないような些細なことに苦しんだり、誰も見ていないようなことに喜びを見出していたり、頼まれもしないのにモノづくりに没頭する。他人から見れば無意味で滑稽かもしれない。でもそういう人生は、美しいと思う。


2023/06/23

ターラ(tara)

ひさしぶりに猫神さん(王子神社)に行ったら、なにかいつもとちがう。以前ならすぐに駆け寄ってくる子が気づかないし、近づいても、どこか普通の猫って雰囲気がして、神気を感じない。あれ?と思いながら神社を出た。

それからいつも休憩する場所にバイクを止めて(今日は猫神さんいなかったなぁ、どうしたんだろうなぁ?)と考えていたら、背後の茂みの中から猫の声が。あまりにも不思議なタイミングで、最初は幻聴かと思った。でもそうではなかった。草むらの中に子猫がいた。

天使のような瞳で、肩に乗ってくるわ、頭に乗ってくるわで、とにかくなつっこくて、キラキラしていて、神気に満ちている。これはきっと化身。こんなことってあるんだな。

もしかしたら、無意識の方が意識より先に猫の鳴き声を聴いていて、連想して猫神さんのことを思い出していたのかも。どちらにしても無意識は宇宙と繋がっていて、世界は愛と不思議に満ちている。

引き取りたかったが、自宅はカムイがいるので難しい。カムイは生粋のハンター。これくらいの大きさの小動物を見ると、本能で襲う。厳しくしつけても、いつか見てないところで襲うだろう。

かといって見捨てるわけにはいかない。途方に暮れていたけど、とりあえず実家に頼んで預かってもらった。

話は猫と出会う前に戻る。


蛇の絵を描きはじめていたある日、龍のような細長い雲海を見たあと、雨が急に激しくなって、家の前を蛇がウロウロしていた。『雨宿りする処を探しているんだろうな。家の下に入れば?』と思ってたら、その蛇が翌日、洗濯場で日向ぼっこしてた。気持ちよさそうな顔をしていたので、笑ってしまった。

それから子猫に出逢った。

そして隣の空き地に、家の下に雨宿りに来ていた蛇の亡骸があった。あの蛇はとてもかわいい目をしていて、なにか言いたげな顔をしていた。たぶん蛇のままだとこれ以上近づけないので、子猫に生まれ変わったのだろう。

ある日、蛇が日向ぼっこをしていた場所の床が抜けて、そのことに気づいた。彼はきっとこの穴から、新しい世界へと飛び出したのだろう、光を求めて。


ターラ(tara)。

ある朝、すっと降りてきた言霊。taraはヒンドゥー語で「星」の意味があり、またチベット仏教におけるターラーとは眼睛(ひとみ)、救度(あらゆる苦しみから救うこと)の意味がある。

ターラー菩薩は、観音様の眼から放たれた、慈悲の光から生まれた仏様。

夏至の日に描いた子猫の瞳に、星の光が流れていたのは、そういうことだったのか。



そういえば、蛇を描いていたときに、なぜかチベット仏教の菩薩が頭から離れず、(救いを求めるように)資料を求めて図書館に行った。

そのとき必ず寄る場所が、図書館の横にある猫神さん。つまり蛇を描いていなければ、不思議なタイミングで子猫(慈悲の光)には出会っていなかった。

時系列にまとめてみよう。


蛇の絵を描きはじめる。

蛇のような不思議な雲海を見た直後に大雨。

家の下に大きな蛇が雨宿りしに来る。

翌日その蛇が洗濯場でひなたぼっこ。見つめ合う。

蛇の絵が白光しはじめる。

やたらとチベット仏教が気になり、狂ったようにチベット密教音楽(マントラ)を聴き始める。

チベットの菩薩が頭を離れない。資料を求めて、半年ぶりくらいに図書館に行く。

図書館の横にある猫神さんに参拝。

帰り道で子猫に出会う。

洗濯場の床が抜ける。

隣の空き地に、あの蛇の亡骸を発見。

猫の絵を描く。

ターラという言霊が降りてくる。


神格化されることはあっても、現実には蛇は忌み嫌われる。毒をもつ種があるので、生存本能としてはしかたないかもしれない。でも子猫はかわいい、蛇は気持ち悪い、という極端な分別は、人間が生物に勝手に押し付けている都合で、本質ではない。

あの蛇はとてもかわいい目をしていた。

そして子猫に生まれ変わった。観音様の涙の力で。


すべてが繋がっている。


でもすでに実家ではミィちゃんと呼ばれていたので、名前はミィちゃん。(笑)

名前は実際に飼ってる人がつけるもの。自然で呼びやすい方がいいに決まってる。

でも見えない世界での彼女の名前は、ターラ。観音様の涙であり、慈悲の光なのだ。

追記:古い土着信仰では、蛇の神様のことを巳さん(みぃさん)と呼ぶらしい。実家ではミィちゃん(巳ちゃん)と呼ばれているターラ。なにも知らない家人につけられていた名前、不思議と辻褄が合っている。




2023/05/08

羚羊(カモシカ)


新緑が美しい雨の日の午後、散歩中にカモシカに遭遇した。


うちの周りは鹿はたくさんいるけど、カモシカは滅多にいない。地元の新聞にも載るくらいで、10年以上住んでいて、見たのは一度だけ。たしか五、六年前くらいだったと思う。

時期や季節は忘れたが、そのときのことはよく覚えていて、川から上がってきて、なぜか伝えたいことでもあるかのように、家の玄関の前で立ち止まっていたのが印象的だった。それ以来なので、今回が二度目。

新緑がとても綺麗だったので、普段は持ち歩かないカメラを持参していた。


不思議なのは、憑かれたように山羊の絵を描いていた、そのタイミングだった。

鹿の絵を描いていると、現実にも鹿が出てくる。こういうことはよくあるが、まあ実際に出会う動物からインスパイアされているのだから、偶然と片付けておかしくはない。でも今回はカモシカ。

なにかグッとくるものがあって、よく見ると顔が描いていた絵に似てるので、もしかしたらと調べたら、カモシカはシカの名が入っているが鹿ではなく、漢字にすると羚羊、やはり牛や山羊と同じウシ科に属するヤギ亜科だった。

山羊ってキリスト教では悪魔的に扱われるけど、実は真逆で、過酷な環境を生き抜く、孤高で強靭な魂を持っている神聖な動物。あの独特な山羊の眼が怖い人は、自分の中の悪魔を見られておびえているから。我が道を行く人にとっては、山羊の瞳は気高く美しい。

人間の都合で悪魔にされたり、生贄にされたり。不憫でならない。描くことを通して、『俺が真実を伝えてやるからな』という気持ちで「山羊の瞳」という二枚の絵を描いたばかりだった。

  

「画家はその身体を世界に貸すことによって、世界を絵に変える」

とメルロ=ポンティは「眼と精神」に書いている。何度でも引用したくなるこの言葉は、いつもすっと腑に落ちる。証明することは難しいけれど、たしかに絵と現実は霊的な通路で交流している。

ただし、いい絵を描きたい(孤独を越えたい)のか、それとも共感してもらいたい(孤独を埋めたい)だけなのかで、交流の在り方はずいぶんと変わってくるのだろうと思う。前者がリアルなら後者はバーチャル。

ほんとうのメタバース(高次の宇宙)とは、人の手でプログラムされたオンライン上ではなく、雨の新緑で誘い出すような、創造の神によって現実に重ね合わせられた我即宇宙。

呼吸をするように眼で聴き、手で応じていると、やがて宇宙に漂っていた「存在」は現れる。ただ綺麗なだけの絵にそれはない。存在はいつも沈んでいた自分を世界に浮かび上げてくれる。もはや描いているのか、描かされているのか本人にもわからない。

ただひとつわかること、私は絵の中に生きている。







2023/02/18

神鹿


何年も前に描いた森の中から、神鹿(霊力を持つ鹿)が出現している。



絵を壊さないように、けして自分を介入させず、静寂に身を潜めて、諦めずに待ち続けていると、彼らはその沈黙に答えるように、向こうから現れる。




神を遮っている唯一の壁が、時間。その時を超えると、存在が降りてきて、自身を表現してくれる。見つめるとは尽くすこと。待つことは信じること。私が森のなかにいるのではなく、私のなかに森がある。





「向こうから来る」という感覚は、真理が霊眼を開くために、魂の方に近寄っている気配であり、高次元からの足音。




それはある人には短期間で、ある人には長期間を経て、その人の魂に呼応した完璧なタイミングで降りてくる。忍耐と持続力を持ち、諦めずに、強く待ち望んでいた者が、それを恩寵として体験することができる。






2023/01/17

魂のコード

あなたが望むものはなんですか?(←link)と聞かれても、若い頃は洗脳を受けた状態なので、自分がほんとうにやりたいことや、望んでいることなんて、なかなか自覚できるものではないんだよね。

世間の目を気にして、無理に夢を描かなくていいんだよ。でも行動はした方がいい。なんとなくこっちかなという路を何度も選んで、恥をかいたり、悩んだり、間違えたり、迷ったりしているうちに、いつか自分の魂と出逢える。大切なのは成功することではなく、幸せになること。

自分は憧れていた土地に住んでみたり、憧れていた人に会ってみたり、憧れていた仕事に触れてみたりするうちに、どんどん幻想が壊れて、絶望していった。

はっきりとした夢も希望もなく、ビジョンも見えなかった。それでも描くことだけはやめなかった。すると使命が降りてくるんだよね。絶望の先に、ほんとうの光がある。

どん底にいても、どうやったら売れるかより、いい絵を描くことしか考えてなかった。路上で絵を売っていたとき、古いカメラを首にぶら下げた、写真家らしき老人が目の前に現れて『君の絵は他の人とはなにかが違う』と言ってカメラを構えて、接写で絵を撮り、野風のように去っていった。そのなにかに、救われたような気がした。

そのなにかに導かれるように、都会の喧騒を離れ、山に登り、森に入り、自然を描くようになったのは、人の世に絶望して世捨て人のようになっていた自分にとっては、好都合だった。人の世よりもはるかに広大な世界があるという実感と心の静寂は、汚れていた魂を洗い清めてくれた。

魂っていうのは、この世に生まれてから死ぬまで、ずっとそばにいる一番大切なもの。でも次第に歪められて、離れてしまう。抜け殻のようになる前に、自分の魂を自分の身体に取り戻すこと。自分がほんとうに望んでいることややりたいことは、その魂に書いてある。

そのコードを読めるようになれば、宇宙のコードにも繋がる。そうすれば、あなたがほんとうに望んでいることなら、宇宙全体が協力して、サポートしてくれるようになる。

成功しなくても、好きなことをやりなさい。(←link)



2022/08/25

龍の夢



不思議な夢を見た。光る球体に先導されながら、山々を恐るべき速さで飛んでいる。龍に化身したのか、身体が蛇のように細長く感じる。凄まじい快感を伴って、長いトンネルを抜けていく。トンネルの中から『その呪力を人を幸せにするために使いなさい』という声が聞こえて目が覚めた。

翌日、用事で山を下りてたんだけど、街から山の方に光る雲が見えた。しばらくしたら四つに分かれて消えた。(これほんとに雲か?)という変な動き。京都の鞍馬寺でも、こういう雲を見たことがある。

それから山に戻る途中で激しい天気雨。雨が止んだら、空には巨大な龍王雲が。撮るときは崩れかけてるけど、もっと綺麗に炎をふきあげるような形をしていた。とにかく巨大で圧倒された。この方角には、龍神さんが棲む神社がある。

以前ここから見えた雲は、そのときよりはひと回り小さい。犬神さんかと思ってたけど、龍神さんだったんだな。なに子どもみたいなこと言ってんだと、笑われるのかもしれない。でも人はみな、見えない存在に守られている。


思い返すと、易紙による映色作品は年初から雪による龍で始まっている。映色をしているとよくわかるんだけど、今年は例年とは違う激しい光の炎のような模様が現れていて、地脈、水脈が蠢いているのを感じていた。地震や火山の噴火が多いのもそのせいだろう。

神即自然を出版した後に、ライオンズゲートというのを教えてもらった。地球上にエネルギーが降り注ぐ時期らしく、そのパワーが最大化するのが8月8日頃だったらしい。出版時期と一致する。じつはこの本は一か月以上前に完成していた。でもなぜか今じゃない気がして寝かしていたのは、ゲートが開くのを、無意識が待っていたからだろう。でもライオンではなくて、ドラゴンズゲートという気がする。干支は虎だけど、今年はずっと龍を感じている。


数日前に自分へのご褒美に迎えたアガベのケルチョベイ。変な名前だなとは思ったけど、元気がよさそうで即決した小さな群生株。後で調べたら、和名が紫雲竜だとわかった。紫雲の竜ってまさにそのときに描いてた絵。紫雲とは阿弥陀仏が来迎するときに乗るめでたい雲らしい。無意識の力には、いつも後から驚かされる。



寝る前にもう一度と願ってはいるが、あれから一度も龍の夢を見ていない。

凄まじい快感と、夢とは思えないようなリアリティ。あれはなんだったんだろうと、思い返すことがある。そしてトンネルの中から聞こえたあの言葉。自分自身の声なのか、それともなにか波動の高い意識体からのメッセージなのか。それは誰にもわからない。

でもふと空を見上げると彼らがいて、ずっと見守られているような気がしている。